第4章 惜しいな、彼女をそんなに痛快に死なせられない
杉浦美雪の瞳が、かっと見開かれた。次の瞬間、川の中で激しくもがき始める。
あまりに唐突な異変だった。心の準備などできるはずもなく、彼女はたまらず叫んだ。
「助けて! 助けて! 私、泳げないの!」
離れた場所にいた者たちも、その騒ぎに気づいた。
真っ先に振り向いたのは杉浦秀明だった。岸辺に立つ杉浦杏奈をひと目見るなり、顔色を変える。
「杏奈!」
杉浦家の面々も、ようやく異変に気づいた。
「誰か落ちたぞ!」
誰かの叫びをきっかけに、招待客たちがざわつきながら集まり始める。
杉浦杏奈は立ち上がり、川の中の杉浦美雪を見下ろした。
苦しげにもがいているように見える。だが実際には、すでに葦の茂みのほうへ向かって泳ぎ始めていた。あそこには、あらかじめ隠しておいた酸素ボンベがある。
それを使って下流へ流れ、そこで藤原智彦に拾ってもらう。
その筋書きだった。
だが杉浦美雪は葦の群生にたどり着き、酸素ボンベを見つけ、マスクをくわえて吸い込んだ――のに、空気が来ない。
もう一度、吸う。
やはり何も出ない。
心臓がどくどくと狂ったように鳴り始めた。彼女はマスクを放り捨て、必死の形相で岸へ向かって泳ぎ出す。
「助けて!」
今度は芝居ではない。声が、あからさまに震えていた。
杉浦杏奈は見ていた。
杉浦美雪の顔に貼りついていた、あの周到に作り上げた仮面が、少しずつ、少しずつ剥がれ落ちていくのを。露わになるのは、むき出しの恐怖。
その様子を眺めながら、杏奈はゆっくりと唇を吊り上げた。
人々が口々に叫びながら駆け寄ってくる、そのさなか――杉浦杏奈が動く。
なんと、彼女まで川へ飛び込んだ。
自分のほうへ泳いでくる杉浦杏奈を見た瞬間、杉浦美雪の背筋を悪寒が走った。咄嗟に身を引き、怯えた声を漏らす。
「な、何する気……?」
杉浦杏奈はまっすぐ彼女の前まで泳ぎ着くと、髪をひっつかみ、そのまま水の中へ叩き込んだ。
杉浦美雪は水を飲み、激しく暴れる。両手を伸ばし、杉浦杏奈の顔をかきむしろうとした。
だが杏奈はひらりと顔を逸らし、もう片方の手で後頭部を押さえつける。さらに深く。逃がさないように。
岸の者たちには、水中で何が起きているのか見えない。ただ、杏奈が水しぶきを上げながら必死にもがいているようにしか見えなかった。
「誰か来い! 監視員を呼べ! 杏奈は泳げないんだ!」
岸の上で、杉浦秀明が叫ぶ。
やがて杉浦杏奈は、杉浦美雪を水面へ引きずり上げた。
杉浦美雪はげほっと息を吸い込む。目は真っ赤に充血し、唇は紫色に変わっていた。全身がぶるぶると震えている。力を使い果たし、それでもなお絞り出した声はかすれていた。
「あなた……私を、殺す気……!?」
杉浦杏奈は笑った。
「自分で飛び込んだんでしょう?」
そしてまた、杉浦美雪を水の中へ押し沈める。
今度の美雪には、もう抗う力すら残っていなかった。
杉浦杏奈は見つめる。
彼女の顔が、じわじわと紫色に染まっていくのを。目の色が、恐怖から絶望へと変わっていくのを――。
ぞくりとするような快感が、かつてないほど濃密に全身を包み込んだ。
前世、杉浦美雪は知っていたのだろうか。
自分が大勢の男に弄ばれていたとき、こんな気分だったのか。
前世、自分の子を抱いて笑っていたとき、こんな気分だったのか。
前世、自分の腹を裂かれ、子宮を奪われると知っていたとき、こんな気分だったのか。
杉浦杏奈は杉浦美雪を引き上げ、また沈める。
引き上げて、沈める。
そうしているうちに、クラブの客たちのことを思い出した。あいつらも、こうやって自分をいたぶった。もがけばもがくほど興奮するのだと、嬉々として笑っていた。
なるほど。あれほど夢中になるわけだ。
確かに――気持ちがいい。
杉浦美雪は、もう動かなかった。
顔はどす紫に変色し、白目を剥き、口元からこぼれるのも空気の泡ではない。血の混じった泡沫だった。
杉浦杏奈は、その瀕死の姿を見下ろしながら、かつて銃口をこめかみに押し当てたときの感触を思い出す。
そして、ようやく手を放した。
惜しい。
こんなにあっさり死なせるわけにはいかない。
遠くから、慌ただしい足音と怒号が近づいてくる。安全員が来たのだ。
その瞬間、杉浦杏奈の目はみるみる赤く染まり、胸が裂けるような声で叫んだ。
「早く! お願い、美雪を助けて! 早く!」
その動きは不器用で、けれど必死だった。ばしゃばしゃと水を叩き、泳げもしないのに妹を救おうとする姉そのものに見える。
安全員が川へ飛び込み、意識を失った杉浦美雪を引き上げた。
杉浦杏奈は、岸にいた杉浦秀明に腕を掴まれ、そのまま引っ張り上げられる。
全身ずぶ濡れのまま、彼女は岸辺に膝をついた。震えが止まらない。涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「美雪……美雪、起きて……お願い、怖がらせないで……」
杉浦秀明は上着を脱ぎ、杏奈の肩に掛けた。
「杏奈、泣くな。美雪は大丈夫だ」
杉浦杏奈はそのまま彼の胸に飛び込み、震える声で訴える。
「秀明、怖い……私、美雪に何かあったらって……!」
杉浦秀明は彼女の背を優しく叩き、低い声でなだめた。
その光景に、周囲の招待客たちも胸を打たれたようだった。
「杉浦家のお嬢様、なんていいお姉さんなのかしら。泳げないのに飛び込んだのよ」
「ええ、本当に。さっき見たときは肝が冷えたわ」
「姉妹の情ってすごいのね……」
そこへ杉浦啓介が駆けつけてきた。
「何があった?」
杉浦秀明が首を振る。
「杏奈が美雪を助けに飛び込んだんだ。美雪、かなり水を飲んだみたいで」
杉浦啓介は杏奈に視線を向ける。杏奈は涙だらけの顔を上げ、不安げに尋ねた。
「啓介……美雪、大丈夫よね?」
杉浦啓介は小さく息をついた。
「泣くな。きっと平気だ」
そのとき、杉浦美雪がげほっと大きく咳き込み、どっと水を吐き出した。
「意識が戻ったぞ!」
誰かが叫ぶ。
杉浦美雪はゆっくりと目を開けた。焦点の定まらない目。身体はまだ痙攣している。
むせ返って言葉にならない。ただ激しく咳き込み、そのたびに血の筋が混じる。
杉浦杏奈は駆け寄り、彼女を抱きしめた。
「美雪……よかった……本当に、心配したのよ。どうしてこんな馬鹿なことしたの。どうして川なんかに飛び込んだの」
涙声はあまりにも自然で、演技だと見抜ける者など誰もいない。
だが杉浦美雪の目には、恐怖しかなかった。何か言おうとして口を開く。けれど水を飲みすぎて、声が出ない。
杉浦杏奈はそっと顔を寄せ、彼女の耳元で、二人にしか聞こえない声で囁いた。
「安心して。次は、絶対に浮かび上がらせないから」
杉浦美雪の全身がびくりと強張る。目がさらに大きく見開かれた。
――杉浦杏奈、狂ってる。
そう叫びたかったのだろう。自分を突き落としたのは彼女だと、皆に訴えたかったのだろう。
けれど喉はひゅうひゅうと空気を漏らすばかりで、何一つ言葉にならない。
やがて医療スタッフが到着し、杉浦秀明が杏奈を脇へ引いた。
「医者に診てもらおう。今は任せろ」
誰かが杏奈にタオルを差し出す。勇敢だったと褒める声。姉妹仲がいいのだと感心する声。
杉浦杏奈はタオルを受け取り、頬の水を拭った。
その陰で、唇がほんのわずかに持ち上がる。
前世、杉浦美雪は偽装死ひとつで皆の同情を攫い、自分だけを奈落へ突き落とした。
けれど今世では違う。
杉浦美雪の偽装死は、本物の溺水に変わった。そして杉浦杏奈は、身を挺して妹を救った健気な姉になったのだ。
なんて皮肉。
杉浦杏奈は静まった川面へ目を向ける。
水の中で白目を剥いた杉浦美雪の顔。口元からこぼれた血泡。死の間際に浮かべた、あの絶望――。
思い出すだけで、甘い痺れが背筋を這う。
けれど、まだ足りない。
杉浦杏奈は顔の水気を拭い取り、瞳の奥に冷たい光を宿した。
これはまだ、始まりにすぎない。
