第5章アンダーソン
パーティーが終わると、リリーは家に帰り、手のひらの中のリーダーバッジをじっと見つめた。抗いきれず指先でそっと撫でながら、深い思索へと沈んでいく。
デイヴィッドの好みは変わっていなかった。今でも、こういうシンプルな意匠が好きなのだ。
そのとき、着信音が鳴って物思いは断ち切られた。表示された名前を見て、リリーは慌てて通話を取る。
「もしもし、おばあちゃん……」
「エミリー……どうしてまたお金を送ってきたの。いらないよ。こっちは使うところもないんだから」
心配と小言が混じった祖母の声に、リリーは笑みを浮かべて答えた。
「いいのよ、おばあちゃん。持ってて。私の分として貯めておいて」
少し話したあと、リリーはチェイスの近況も祖母に伝えた。手が空いたら祖母をこちらに呼んで一緒に暮らすつもりだったが、今は仕事が立て込みすぎている。まとまった時間ができたら、すぐに帰省して会いに行く――そう自分に言い聞かせた。
何しろ、リリーに残された身内は、もうこの祖母ひとりだけだったのだから。
電話を切ろうとした矢先、祖母がふいに口を開いた。
「エミリー……お父さんは私たちを捨てたけど、それでも、許してあげられるといいね。おじさんのこともね。あの子は本当に筋が通ってなかったし、あんたを傷つけた。でも、あんたのおじさんであることには変わりないよ。数日前に家に戻ってきて、あんたのことを聞いてた……」
祖母は言葉を濁した。息子たちが何をしたか、痛いほど分かっているのだ。
「おばあちゃん……そういうこと、心配しないで。ね?」リリーの声がわずかに震える。
幼いころ、両親の仲はまだそれなりに保たれていた。だが、カイが思いがけず宝くじに当たった瞬間から、すべてが変わった。
彼は母の気持ちなど顧みずに女を作りはじめ、やがてミアの母親に出会う。カイはまた恋に落ち、家の財産を根こそぎ持ち去り、ジョンソン家には巨額の借金だけが残った。母は働きづめの末に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
叔父のイーライに至っては、リリーは思い出したくもない。ただ、彼が賭け事に溺れ、負ければ姿をくらませる人間だったことだけは覚えている。勝ったときだけ、甘いものを買ってくれた。だが、隠れるときは決まって、リリーを祖父母の家に置いていった。
結局、リリーを育てたのは祖父母だったのだ。
「分かってるよ、おばあちゃん」リリーは優しく言った。
けれど、それは年寄りを安心させるための言葉にすぎない。リリーにイーライの話を持ち出す気などなかったし、まして連絡を取るつもりもない。同じ街に住んでいようと、関係ない。
電話を切ると、リリーはリーダーバッジを密封袋に入れ、丁寧にしまった。
『ラブ・アンロックド』はまだ残り六話ある。バッジをデイヴィッドに渡す機会はいくらでもある。
急いで現場へ向かうと、エラが苛立ちをにじませてリリーを迎えた。
「リリー、先に言っとく。いま、見張られてるからね。宣伝のためにジョシュアと組まされてるのは分かるけど、メインスポンサーは今でもアンドリュー・アンダーソンよ! あの人、気が短いんだから、他の男とは距離を置いて」
リリーは首をかしげた。今度は何をして、アンドリューの機嫌を損ねたというのだろう。
エラが数枚の写真を取り出した。昨夜、ホテルでリリーがデイヴィッドとぶつかり、短く言葉を交わしているところが写っている。
「ただの偶然よ。写真の相手はデイヴィッド。たまたま会っただけ」リリーは落ち着いて答えた。
「アンダーソンさんは、相手が誰かなんて気にしないの」エラはそう言い、リリーの苦境を分かりながらも、どうにもできない自分を噛みしめた。アンドリューは悪名高い人物で、いつもゴシップ欄の常連、恋人を替える速さは着替えより早いとさえ言われる。芸能ニュースに興味がない者でも、その名くらいは知っているほどだった。
アンダーソン・グループは、紙媒体にデジタル、さらには公的なメディアに至るまでをも牛耳っていた。時代の変化に合わせて彼らは素早く事業形態を切り替え、娯楽産業の中でも確かな地位を手に入れた。アンダーソン家には息子が二人いる。表に出ることを好まず堅実で、めったにニュースにならないソーヤー・アンダーソン。そして常に注目の的であるアンドリューだ。アンドリューは荒っぽく尊大な男で、卒業後は家業ではなく芸能界を選んだ。
その容姿と、アンダーソン家の後ろ盾があって、彼は一躍、人気スターとなった。
だが彼の本当の立場は、リリーにとっての「後見人」だった。何年も前、借金まみれの叔父イーライが、リリーを彼に売り渡したのだ。
「もう二度と、あの人を怒らせないで」エラはアンドリューの名を口にした途端、眉をひそめて忠告した。「甘やかされてて手に負えないの。返し終わったら、きっぱり縁を切りなさい」
リリーがこれまでに味わってきたものを理解しているからこそ、エラは肩に手を置き、声の調子をいっそう宥めるようにした。
リリーは重々しくうなずいた。「分かってる。ありがとう」
「当時のことはあなたのせいじゃない。でもアンダーソン家を敵に回す余裕はないの。いい子にして、リリー」エラは目の前のか弱いリリーに同情し、声をいっそう柔らげた。
「今夜はチェイスと夕食を取るわ。そこでまた詳しく話しましょう。今は収録に集中して、ほかのことは気にしないで」
リリーはうなずいた。何があっても、仕事を疎かにするわけにはいかなかった。
収録が終わり、チェイスの見舞いに病院へ向かおうとしたところで、見知らぬ番号から着信があった。
アンドリューから電話が来るなど久しぶりすぎて、発信者を確認することもなく出てしまった。
「今夜、アジュール・パレス・ホテルに来い」命令口調の声が耳に刺さる。
「アンダーソン様……」記憶が一気に押し寄せ、背筋がぞくりと粟立った。「何かご用でしょうか」
アジュール・パレス・ホテル? どこだろう。なぜ、そこへ来いと言うの?
「用はある。お前がまだ俺に借りてる七百万の件だ」アンドリューは言った。「契約、あと一年以上残ってるんだろ? 本当に払い切れると思ってるのか」
リリーの頭は真っ白になり、言葉が出てこない。
「だから、お前のこれからの段取りを話す。お前はまだ俺の稼ぎ道具が必要なんだ」
「……分かりました」不安を抱えたまま、リリーは答えた。アンドリューは自分をはめようとしているのか、それともただ怒りをぶつけたいだけなのか。「でも、どうしてアジュール・パレス・ホテルなんですか。場所も分かりません。アンダーソン様、会社でお会いするのではだめですか」
「お前、自分がどれだけ偉いと思ってる?」アンドリューが嘲った。「高級車で迎えに来いってか? 俺は忙しいし、翡翠市にいられるのも数日だけだ。話したいなら来い。来ないなら勝手にしろ。契約は自動更新だ。俺に借りがある限り、お前は俺のために働き続ける」
今所属している事務所は、アンダーソン家の完全な持ち物だった。
「お前だって清純ぶってるわけじゃない」アンドリューの声には露骨な皮肉が絡みつく。「誰もが誰も、お前と寝たがると思うなよ」
リリーは携帯を握り締め、血の気がすっと引いていくのを感じた。
「昔のお前がどんなツラしてたか、覚えてるか? 誰がお前なんか欲しがるってんだ。年齢か? 頭の足りなさか? 元々たいして可愛くもなかったくせに、こっちが作り替えてやらなきゃ今のお前は何もない。女なんて散々見てきた。少し健康になって少し見映えが良くなったくらいで、好き勝手できると思ってるのか?」
