第2章
アパートは記憶の中と寸分違わず、入り口のそばにある萎びたゼラニウムさえ、元の場所に置かれたままだった。私は深呼吸して、どうにか自分を落ち着かせようとした。
おばあちゃんは、まだ生きている! 今、この瞬間、おばあちゃんはまだ生きているんだ!
アパートに駆け込み、八階まで一気に階段を駆け上がった。鍵はまだ制服のポケットに入っている。震える手で、五〇二号室のドアを開けた。
鼻腔をくすぐる甘い香りが、私を現実へと引き戻した。それは、どこか懐かしい、温かい焼き菓子の匂い。
そして、その香りに誘われるように、耳に届いたのは、優しい鼻歌だった。キッチンへと足を進めると、目に飛び込んできたのは、紛れもないあの後ろ姿。コンロのそばで、トレードマークのラベンダー色のカーディガンを羽織り、慣れた手つきで何かを混ぜている。
その柔らかな背中、揺れる髪、そして耳に心地よく響く歌声……ああ、この光景は、夢じゃない。本当に、あの頃に、あの場所へ帰ってきたんだ。
「おばあちゃん……」感情がこみ上げて、声がほとんど出なかった。
御影おばあちゃんが振り返る。その優しい顔には心配の色が浮かんでいた。「あら、早かったのね。顔色が悪いじゃないか。どこか具合でも悪いの?」
もう、感情を抑えることができなかった。私はスクールバッグを床に落とし、おばあちゃんに駆け寄って強く抱きしめた。温かい抱擁、懐かしいラベンダーの香り、そして無条件の愛、すべてが本物だった!
「おばあちゃん、やった!ずっと会いたいよ!」私は半ば狂ったように泣き叫んだ。「もう二度と、誰にもおばあちゃんを傷つけさせたりしないから!」
「あらあら、私の可愛い子」御影おばあちゃんは優しく私の髪を撫でた。「どうしてそんなに悲しそうに泣いているの? またお父さんとお母さんの夢でも見たのかい?」
私はしゃくりあげながら頷いた。本当のことは、とても言えなかった。顔を上げて、おばあちゃんの顔の隅々まで目に焼き付けようとする。そのすべてを心に刻み込むかのように。
「さあ、クッキー作りの秘訣を教えてあげるわ」御影おばあちゃんはそう言って、私をカウンターへと優しく導いた。「一番大事な材料は、チョコレートでも小麦粉でもなくて、愛情なのよ」
私たちは一緒に生地をこねた。おばあちゃんは根気よく、我が家のレシピを教えてくれる。それを習いながらも、私は頭の中で時間を確認していた――今は二〇一七年、十一月二十三日の午前。悪夢が訪れるまで、まだ何時間もある。
まだ、すべてを変えるチャンスがある!
でも、おばあちゃんに何かおかしいと気づかれないように、慎重に行動しなくちゃ。少なくとも表向きは、元の時間軸通りに振る舞う必要がある。
「おばあちゃん、学校に戻らなきゃ」私は冷静を装って言った。「今日は部活があるの。休めないんだ」
「分かったわ、気をつけて行くのよ」御影おばあちゃんは愛情を込めて私の頭を撫でた。「夕食には、大好物のローストチキンを用意しておくわね」
私は、おばあちゃんの背中に、ありったけの想いを込めて腕を回した。その細い肩を、震える指先で強く掴む。これが、あの悲劇を回避するための、最初で最後の別れになるかもしれない。
そう思うと、胸の奥が締め付けられ、涙が込み上げてくるのを必死に堪えた。この温もりを、この匂いを、この優しい呼吸を、忘れない。決して、忘れるものか。
やがて、覚悟を決めるように、ゆっくりと身を離した。床に置かれたスクールバッグを無造作に拾い上げ、私は顔色一つ変えずに玄関へと向かう。扉を開け、外の光の中へ。
しかし、足音は、もはやただの日常を刻む音ではなかった。それは、運命を変えるための、確かな一歩だった。
午後五時半、白鷺第二高校に下校のチャイムが鳴り響いた。
私はリュックを背負って校門を出た。緊張と希望が入り混じった気持ちだった。はっきりと覚えている。元の時間軸では、私は桜苑通りを通って家に帰り、まさにその道で蓮司に出会ってしまったのだ。
「あの道さえ通らなければ、蓮司に会うこともないし、おばあちゃんも死なずに済む!」私は自分にそう言い聞かせ続けた。
私は意図的に、普段は決して使わない安全な道を選んだ――二ブロック分、遠回りするルートだ。二十分余計にかかるけれど、人通りが多くて安全だ。私は歩みを速め、今すぐにでも飛んで帰っておばあちゃんに警告したいと願った。
「今度こそ、うまくいくはず……いかなきゃ!」
しかし、中央通りの交差点に差し掛かった時、前方に突然、警告標識と工事用のバリケードが現れた。ヘルメットをかぶった作業員が、私を止めるように手を振っている。
「お嬢さん、この先は工事で通行止めだよ。古い道に迂回してくれないか」作業員は桜苑通りの方を指差した。「通れるのはあそこだけだ」
全身の血が凍りつくのを感じた。「いや……その道は通れません! 他に道はありませんか?」
「ないね、この辺一帯が工事中なんだ。急いでるなら、桜苑通りを行くしかないよ」
しぬ! そんなはずない! 心の中で叫んだ。どうして運命までが、私が歴史を変えるのを阻もうとするの? 桜苑通りへと続くその道は、まるで死神が手招きしているように見えた。
だが、私に選択肢はなかった。すでに午後六時を回っており、これ以上遅くなれば、おばあちゃんが心配する。
震える足が、どうしても踏み出したくない道へと、私を否応なく誘う。一歩、また一歩。そのたびに、足元が崩れ落ち、底の見えない深淵へと引きずり込まれていくような錯覚に陥った。
全身の細胞が、恐怖に悲鳴を上げる。それでも、私は歩き続ける。一秒ごとに、どうか奇跡が起きてくれと、魂の底から叫びながら。
もしかしたら……もしかしたら、今日は蓮司は現れないんじゃないか? 私が来たことで、すでに何かが変わったのかもしれない?
私はわざと歩みを遅くし、道沿いの店をぶらぶらと見て回り、おばあちゃんの好物のお菓子を買ったりして時間を潰そうとした。しかし、空が次第に暗くなるにつれて、これ以上引き延ばすことはできなかった――おばあちゃんが心配してしまう。
ようやく桜苑通りに着いた時、街灯はすでに灯っていた。スマホを確認すると、午後六時十五分。
緊張しながらあたりを見回した。すべては記憶の中とまったく同じだった。壊れたゴミ箱、薄暗い街灯、そしてあの隠れた路地の入り口。私は歩みを速めた。この危険な場所を、一刻も早く通り抜けようと。
突然、路地から背の高い人影が現れた。
心臓が止まるかと思った。蓮司だ!
「楓花!」彼はいつものように人懐っこく手を振った。「こんなところで会うなんて奇遇だな」
私は冷静を装い、数歩後ずさった。「蓮司さん……私、家に帰らないと」
「そんなに急ぐなよ」彼の笑顔が、次第に不気味なものに変わっていく。「久しぶりに話そうぜ。最近、俺のこと避けてるみたいじゃないか?」
手のひらに汗が滲む。必死に逃げる口実を探した。「私……おばあちゃんが夕食を待ってるから……」
「そうかい?」蓮司はゆっくりと近づいてくる。「でも、おばあさんが買い物に出かけるのを見たぜ。まだ帰ってないんじゃないか?」
全身の血が凍りついた。見張られていたんだ!
「お前が何を考えてるか分かってるぜ、お嬢ちゃん」蓮司の目が危険な光を帯びる。「ルートを変えれば逃げられるとでも思ったか? お前たちのことは、ずっと前から観察してたんだよ」
私は背を向けて逃げようとしたが、蓮司に腕を掴まれた。
「やめて……」私はもがき始めた。「離して!」
「大人しくしていれば、誰も傷つかない」蓮司は私を路地の奥へと引きずっていった。
路地は真っ暗で、ゴミ箱の奥には廃墟となった小さな倉庫があった。蓮司は錆びついたドアを力任せに押し開け、私を中に引きずり込んだ。
「やめて……お願い……」必死にもがくが、彼の力はあまりにも強かった。
「いくら叫んでも無駄だ、ここは防音だからな」蓮司は邪悪に笑いながら、私の制服を破り始めた。「この瞬間を、ずっと待ってたんだ……」
絶望感が私を襲い、涙が止めどなく流れた。蓮司がベルトのバックルに手をかけた、まさにその時、外から突然、足音と叫び声が聞こえてきた。
「楓花? 楓花、どこにいるの?」おばあちゃんの声が、だんだんと近づいてくる。
蓮司の顔色が一変した。彼は慌ててズボンを引き上げ、私を獰猛な目つきで睨みつけた。「声を出すな!」
おばあちゃんの足音が路地の入り口あたりで聞こえる。私を探しているんだ。ここにいるって知らせなきゃ!
「おばあ.......」叫ぼうとした瞬間、蓮司がすぐに私の口を塞いだ。
「蓮司さん! 蓮司さん、物音が聞こえたわ! 楓花はそこにいるの?」おばあちゃんの声は心配に満ちていた。
蓮司は狼狽した。今ここを離れなければ手遅れになると、彼は悟った。だが、その時すでにおばあちゃんはこの廃倉庫を見つけていた。彼女はドアを押し開けて入ってきた。
「なんてこと!」目の前の光景に、御影おばあちゃんは完全に凍りついた。私の制服は破られ、髪は乱れ、そして蓮司がまだ私のそばに立っていた。
短い沈黙の後、御影おばあちゃんの怒りが爆発した。「この人でなし! 楓花に何をしたんだい?!」
「ばあさん、ちょうどいいところに来たな」蓮司は邪悪に笑った。「これを見られたからには、お前も生きてここから出られると思うなよ」
この光景を目の当たりにして、私の心の中の恐怖は頂点に達した。次に何が起こるか、私には正確に分かっていた。八年前と同じ悲劇が、今まさに繰り返されようとしていたのだ。
