第4章 反撃
菅田美波の掌は裂け、細かな血の珠がじわりと滲んでいた。だが本人は痛みなど感じていないかのように、汚いものでも払うみたいに手をぶん、と振った。まるでゴミでも振り落とすように。
氷のように冷えた瞳を上げ、その視線が、硬直したままの菅田家の面々をゆっくりとなぞる。
「……これが最初で、最後」
声は大きくない。けれど氷で鍛えた刃みたいに、一語一語が胸の奥へ刺さる。
「次があったら、砕けるのは灰皿じゃない」
言い捨てると、青ざめた顔など一瞥もしないまま踵を返した。裸足で、階段を一段ずつ上がっていく。
背筋は異様なほど真っすぐ。すべてを見下ろす孤高。
さっきガラスを握り潰した女が、ただ取るに足らないことをしただけ――そう言わんばかりだった。
彼女の姿が二階の曲がり角へ消えて、ようやく。
張り詰めていたリビングの空気が、遅れて動き出す。
菅田英樹は自分の微かに震える手を見つめ、驚愕と怒りで顔色をまだらにした。追いかけて怒鳴りつけたい。だが娘の、感情のない目。床に散ったガラス片。
それが脳裏に焼き付いて離れず、足が鉛みたいに重い。
「英樹……」
菅田美幸は真っ白な顔で、声も震えていた。もはや上品な仮面を保てない。
菅田雨子は母の背に隠れ、泣くことすら忘れて硬直している。
「僕は、先に失礼します。菅田叔父さん、叔母さん」
ひやりとした男声が、この歪な沈黙を裂いた。
加藤浩史が立ち上がり、裾を整える。視線だけが、階段のほうへ流れた。
今日は菅田雨子に「美波をなだめてほしい」と呼ばれただけだった。まさか、こんな芝居を見るとは。
幼い頃から自分の後ろにくっついて回り、臆病で、自卑して、顔も上げられなかった菅田美波が――一夜で別人になっている。
鋭い。危険。なのに、致命的に目を引く何か。
もしかして自分は、今まで彼女のことを何ひとつ知らなかったのではないか。
そんな気がした。
「浩史……悪かったな、こんなことに……」
菅田英樹が絞り出す。
加藤浩史は礼儀正しく頷いただけで、それ以上は言わず、菅田家を後にした。
別荘の門を出ると、夜風が頬を撫でる。
頭の中では、灰皿を握り砕く光景と、あの冷たい警告が繰り返し再生されていた。
乱暴だとは思わなかった。
むしろ奇妙な称賛と好奇心が湧いてくる。
――今の菅田美波は、面白すぎる。
……
深夜。菅田美波の部屋は闇に沈んでいた。
彼女は絨毯に胡坐をかき、別荘の庭で摘んだ薬草を数株、救急箱から引っ張り出したアルコールランプとガラスの試験管を前に並べる。
暗夜組織の首領として、薬理も毒理も専門家以上に叩き込まれている。
昼のうちに察していた。この身体に入れられている毒は、ブラッド・プリズンで回っていた毒素に似ている。慢性の神経毒素の亜種――ただし量は軽く、やり口も稚拙だ。
長期摂取で代謝を壊し、肥満と皮膚の荒れを招く。さらに神経をじわじわ削り、反応を鈍らせる。
菅田美幸はよく考えたものだ。ぬるい湯で蛙を煮るみたいに、少しずつ元の持ち主を壊していく。
菅田美波は潰した薬草の汁を試験管で慎重に精製し、アルコールランプのかすかな火を頼りに、臨時の解毒剤を調合する。材料は粗末でも、急性の発作を抑え、体力を戻す程度なら足りる。
そのとき――耳が、ほんの僅かに動いた。
扉の向こう。意図的に殺された、かすかな足音。
菅田美波の瞳が冷える。
彼女は素早く火を消し、道具を隠し、ベッドへ滑り込んだ。目を閉じ、呼吸をゆっくり整え、熟睡を装う。
扉が音もなくわずかに開き、細い影が忍び込んでくる。
影は枕元へ直行し、ポケットから小瓶を取り出した。蓋をひねり、無色の液体を、ベッド脇の加湿器へ残らず注ぎ込む。
終えると不安げに身を屈め、寝ているはずの菅田美波を覗き込んだ。
闇の中、肥満の体は微動だにしない。重い寝息だけが続く。
影が安堵し、口元に悪意の笑みを浮かべて踵を返した――瞬間。
背後から、氷のように冷たい手が喉をがっちり締め上げた。
「――っ!」
叫びは喉で潰れ、短い悲鳴に変わる。
耳元に、地の底から這い上がるような声が落ちた。
「私の加湿器に……何を混ぜた?」
菅田美幸は血の気が引き、全身が凍りついた。
振り向いた先。闇の中でぎらりと光る眼。月明かりに照らされる顔は、腫れとニキビでただでさえ醜いのに、今は墓から出た悪鬼そのものだった。
「ひっ……おばけっ!」
精神の堤防が崩れ、菅田美幸は金切り声を上げて腰を抜かし、床へ崩れ落ちた。
「どうした!」
階下から菅田英樹の怒声。続いてどたどたと足音。
ぱちん、と部屋の灯りがつく。眩しい光に全員が目を細めた。
駆け込んできた菅田英樹と菅田雨子が見たのは、床に座り込み震える菅田美幸と、余裕の顔で立つ菅田美波だった。菅田美幸は菅田美波を指さし、木の葉みたいに震えている。
「この子が……私を殺そうとしたのよ! 英樹、殺される!」
菅田美幸は夫へ縋りつく。
菅田英樹は妻の青ざめた顔と、無表情の菅田美波を見比べた。昼から積もり続けていた怒りと恐怖が、一気に噴き上がる。
この娘はもう正気じゃない。家族に危害を加える化け物だ。
そんな確信が頭を真っ白にした。
「この生意気な娘が!」
菅田英樹は怒鳴り、菅田美波へ突進する。腕を振り上げ、全身の力を込めた平手打ちが頬へ飛んだ。
だが、その手は――頬の数センチ手前で止まった。
菅田美波はほとんど動いていない。ただ左手を上げ、菅田英樹の手首を正確に掴んだだけだ。
速すぎて残像が残る。
しかも力が異常だった。
菅田英樹は、冷たい鉄の万力に骨ごと挟まれたように感じる。押せない。引けない。
「お前……!」
菅田英樹の顔が赤くなる。
「私が何?」
菅田美波の眼は氷のまま。手に僅かな力を込めるだけで、菅田英樹はうめき、額に冷や汗が滲んだ。
肥満で醜い姿のままなのに、纏う圧だけで人が震える。
――これは、あの臆病な娘ではない。
「お姉ちゃん! お父さんを離して!」
菅田雨子が泣き顔で飛び込んでくる。だが目の奥には妙な昂ぶりが灯っていた。
「お父さんに手を上げるなんて! 頭おかしいよ!」
