第1章

「素子! 頼む、電話に出てくれ!」

 通話ボタンを押した瞬間、悲痛なまでに焦燥しきった悠介の声が飛び込んできた。

「悠介? どこにいるの? 外はもう風が強くなってきたわよ!」

「君のマンションの下だよ! 俺と母さん、それに兄貴の雅也と義姉さんの優香も一緒なんだ!」

 私は呆然とした。

「どうしてみんなでここへ?」

「途中で車がエンストして、全員ずぶ濡れなんだ!」悠介の声はひどく哀れみを帯びていた。

「素子、お願いだ。ドアを開けて、一時的に避難させてくれないか?」

 電話の向こうから、彼の母である加美恵のわざとらしい激しい咳き込みが聞こえてくる。

「一晩だけでいいんだ。絶対に迷惑はかけないから!」悠介は必死に約束した。

 私たちが付き合い始めて一年。

 彼はいつも優しくて思いやりがあり、疑う理由など微塵もなかった。

「わかった、待ってて。今開けるから」

 何の躊躇いもなく、私は温かいソファから立ち上がり、早足で玄関へと向かった。

 玄関の巨大な姿見の前を通り過ぎようとしたその時、ふと視界の端で鏡面を捉えた。

 私はピタリと足を止める。

 全身の血液が、一瞬にして凍りついたかのようだった。

 鏡の中の玄関は、いつもの清潔で明るい空間ではなく、ひどく荒れ果て、壁にはおぞましい血しぶきが飛び散っていたのだ!

 さらに恐ろしいのは、鏡の中の『私』だった。

 その『私』は全身傷だらけで、顔は血にまみれ、服はボロボロに引き裂かれている。

 彼女は私をじっと見つめていた。

 その瞳に宿るのは、身の毛もよだつような絶望と恐怖。

 彼女は血に染まった口を大きく開け、狂ったように私に向かって叫んでいる。

 音は聞こえないが、その口の動きからヒステリックに同じ言葉を繰り返しているのがわかった。

『開けないで! 開けちゃ駄目! 殺される!』

 ドーンッ!

 窓のすぐ外で雷鳴が轟いた。

 鏡の中の恐ろしい光景は瞬時にかき消え、元の整然とした空間を映し出す。

 私はその場に立ち尽くし、止まらない悪寒に全身鳥肌が立っていた。

 あれは絶対に幻覚なんかじゃない!

 何かがおかしい! 悠介たちの突然の訪問は、決して偶然などではない!

 私はドアノブに伸ばしかけていた手をすぐに引っ込めた。

 カチャッ。

 生まれてから一番の素早さで、三つの防犯ロックをすべてかけた。

 これだけじゃ足りない!

 私は半狂乱になりながら、そばにあった重い無垢材のシューズボックスをドアにぴったりと押し当てた。

「深呼吸して。素子、落ち着かなきゃ」

 私は平静を装い、スマホを手に取って悠介にかけ直した。

「素子? どうして開けてくれないんだ?」悠介の声は相変わらず焦っている。

「悠介、ごめんなさい。私、いま家にいないの」なるべく声を震わせないように努めた。

「家にいないだって!?」

「ええ、台風が来る前に早坂の家に避難させてもらったの。今、彼女の家にいるわ」

 悠介の口調は信じられないほど硬くなり、かすかな冷酷さすら滲ませていた。

「もう一度言ってみろ。どこにいるって?」

 私は何も答えなかった。電話の奥から、別の声がはっきりと聞こえたからだ。

『あのクズ、家にいないなんて言ってるわよ!』母親の加美恵の悪意に満ちた声。

『四の五の言ってねえで、ドアをぶち破れ! あいつの遊びに付き合ってる暇はねえんだよ!』兄の雅也の苛立った怒声だった。

 心臓がドクンと跳ねた。

 確信した。あの鏡の警告は本物だ!

 悠介たちは避難のために来たわけじゃない。私の命を狙う恐ろしい企みが隠されているに違いない!

 プーッ、プーッ、プーッ……。

 通話は一方的に切られた。

 私はすぐさま早坂に電話をかけた。

『申し訳ありませんが、お客様のおかけになった電話は……』

 話中!

 しまった! 悠介だ! 絶対に早坂に電話して私の居場所を確認しているんだ!

 私は熱した鉄板の上の蟻のように焦り、震える手で何度も早坂の番号へリダイヤルした。

 出て! 早坂、お願いだから電話に出て!

 三回目で、ようやく繋がった!

「もしもし? 素子?」

「早坂! さっき悠介から電話がかかってこなかった!?」私は声を潜め、早口で尋ねた。

「そうよ、あのキモ男。でも出なかったわ」早坂は鼻で笑った。

「前からあいつのことろくでなしだと思ってたし、顔を見るだけでも吐き気がするの。言葉なんて交わしたくないわ」

 私はふっと安堵のため息を漏らし、足から力が抜けてその場にへたり込みそうになった。

「早坂、よく聞いて。これは私の命に関わることなの!」

「えっ?」

「この後、誰に聞かれても、たとえ警察からでも、私が今あなたの家にいるって言い張って! わかった!?」

 早坂は戸惑いながらも、私の恐怖に満ちた声色を察して即座に了承してくれた。

「わかったわ! 了解、あなたは今ここにいる!」

 電話を切った直後、ドアの向こうから鈍い衝撃音が響き渡った。

 ドンッ! ドンッ! ドンッ!

 悠介の一家が外で激しくドアを叩き始めたのだ!

「素子! 開けろ! 中にいるのはわかってるんだぞ!」

 息が詰まりそうなその絶体絶命の瞬間、ドアの外から別の声が聞こえてきた。

「どなたかいらっしゃいますか? 修理業者の佐々木章です!」

 ええっ!? 水道の修理業者!?

 私はハッと思い出した。確かに昨日、水回りの修理を依頼していた。でも、どうしてよりによってこんな時に!

「素子さん? 開けてください、配管の修理に来ましたよ!」外で佐々木が大声を出す。

 再び訪れた大ピンチ!

 悠介たちがすぐ外にいるのに、もし佐々木が無理やりドアを開けさせようとしたり、私が家にいることを暴露したりしたら、私は確実に殺される!

 私は急いで管理会社の連絡先履歴を探し出し、佐々木に電話をかけた。

「佐々木さん! 私、いま留守にしているから、修理はまた今度にして!」私は矢継ぎ早に命じた。

「あ……わかりました」

 電話を切り、再び安堵の息を吐く。

 しかし、外のノックの音はすでに狂気を帯びた激しい打撃音へと変わっていた!

 この高級マンションのドアでも、激しい衝撃を受け続ければ強制的にこじ開けられる可能性があることを思い出した!

 パニックがまるで潮のように私を呑み込んでいく。

 このまま座して死を待つわけにはいかない。私は警察に通報することにした。

「もしもし警察ですか、こちらブルースカイマンションの2402号室です! 何者かがドアを破って侵入しようとしています、殺されます! 今すぐ助けに来てください!」

『承知しました。直ちに警察官を向かわせますので、安全な場所でお待ちください』

 十分後。

 ドアを叩き割ろうとする音が、唐突に止んだ。

 代わりに響いたのは、威厳に満ちた声だった。

「警察だ! 中にいる者はドアを開けなさい!」

 警察が来てくれた!?

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