第4章

 だが今回、彼女は咆哮することも、掻きむしることもなかった。

 ただ静かにそこに佇み、ひどく悲痛で、限りなく絶望的な眼差しで私を見つめている。

 額から血の混じった水が滴り落ちており、その腹は異様に大きく膨らんでいた。

 彼女はゆっくりと欠損した指を上げ、ドアの外を指差した。

「油断しないで。奴ら……まだ手を出してくるわ」

 ドクンッ!

 私は恐怖のあまり悲鳴を上げ、背中が硬い壁にぶつかるまで後ずさりした。

 ここにいては駄目だ!

 たとえ鍵をかけていても、警察が来た後だとしても、ここはもう絶対に安全ではない!

 狂ったように寝室へ駆け込み、ボストンバッグを掴み取ると、着替え数着とすべての重要書類を無造作に詰め込んだ。

 ファスナーを閉めた途端、スマートフォンが狂ったように震え出した。

 悠介からだ。

「素子、お願いだ、電話に出てくれ!」

「ごめん、さっきのは全部母さんと兄貴が悪いんだ、睡眠薬を持ってるなんて俺は全く知らなかった!」

「誓って言う、俺はただ君に会いたかっただけなんだ! 頼む、弁明する機会をくれ!」

 画面に次々とポップアップする白々しい嘘を眺めていると、胃の中が激しく掻き回されるような吐き気を覚えた。

 着信拒否。削除。

 一切の躊躇なく、一息に。

 そして早坂に電話をかけた。

「早坂、数日そっちに泊めてほしいの。今すぐ」

 三十分後。私はキャリーケースを引きずりながら、逃げるように早坂のマンションへ転がり込んだ。

 吹き荒れる暴風雨は窓の外に隔絶されている。

 早坂はホットココアを淹れてくれ、恐怖も冷めやらぬ私の姿を見て、愕然とした表情を浮かべた。

「嘘でしょ……あいつら、本当に金目当てで殺そうとしてきたの!」

 早坂は拳を握り締め、それからハッと気づいたように声を上げた。

「待って! 家を出る前、オートロックの暗証番号は変えた!?」

 温かいマグカップを両手で包み込みながら、私は冷え切った目を向ける。

 そして、ゆっくりと首を横に振った。

「変えてない」

「気が狂ったの!?」早坂が甲高い声を上げる。

「悠介は暗証番号を知ってるんでしょ! 夜中に奴らが戻ってきたらどうするのよ!」

 カップの水面に映る自分の瞳をじっと見つめる。

「戻ってきてほしいのよ。さっきのはただの『未遂』だから、警察はせいぜい警告しかできない」

「連中を完全に食いつかせて、反論の余地がない決定的な犯罪の証拠を残す必要がある。一生、刑務所から出られないようにしてやるわ」

 早坂は息を呑んだ。

 それから三十分も経たないうちだった。

 ローテーブルに置かれたスマホの画面が突然点灯し、耳障りな赤いサイレン音を鳴らした。

『警告:ご自宅で不正な侵入を検知しました』

 玄関のスマートドアベルではない。リビングのエアコンの吹き出し口に隠しておいた、高画質の小型監視カメラだ。

 私はすぐさまスマホをスワイプし、ライブ映像に切り替えた。

 画面の中では、我が家の玄関のドアが堂々と押し開けられている。

 悠介の家族が、飢えたジャッカルの群れのように、再び私の家へと侵入してきたのだ!

 私の妨害がなくなったことで、連中は一切の偽装を剥ぎ捨て、最も強欲で醜悪な素顔を曝け出していた。

「あのクズ、やっぱり逃げやがったわね!」加美恵が悪態をつき、振り返るなり狂ったようにリビングを漁り始めた。

「お義母さん、これ見て!」

 義姉の優香が興奮した様子で私のジュエリーボックスを引き開け、5万ドル相当のカルティエの時計とダイヤモンドが敷き詰められたネックレスを、そのまま自分のポケットにねじ込んだ。

 加美恵も負けじとウォークインクローゼットへ突進し、一番高価なエルメスの限定バッグを根こそぎ引っ張り出してきた。

「金庫がどこにあるか探しなさい! 権利書と銀行のトークンを隠してるはずよ!」

 悠介は目を血走らせ、狂人のようにデスクの引き出しをひっくり返し、書類が床一面に散乱する。

 画面の中にいる寄生虫のような悪魔たちを見つめながら、私は録画ボタンをタップした。

 盗めばいい。壊せばいい。

 奪う額が大きければ大きいほど、量刑は重くなるのだから。

 数日後。

 台風が過ぎ去り、街は日常の機能を取り戻していた。

 私は早坂の家から会社へ出勤した。

 すべては平穏を取り戻したかのようだった。悠介一家は私のマンションを略奪した後、一時的に姿をくらましていた。

 夕方。地下駐車場。

 ハイヒールの音を響かせながら、自分の駐車スペースへと歩いていく。

 突然、柱の陰から黒い影が飛び出し、真っ直ぐに私へと飛びかかってきた!

「素子!」

 私は恐怖で全身を強張らせ、手に握っていた催涙スプレーのボタンをあわや押しそうになった。

 悠介だ。

 酷く憔悴しきった様子で、無精髭を伸ばし、眼窩は窪み、服はしわくちゃだった。

「素子! 頼む、行かないでくれ!」

 彼はそのまま私の目の前に土下座し、私の脚にすがりつくと、堰を切ったようにボロボロと涙をこぼし始めた。

「俺が悪かった! 本当に俺が間違ってた! この数日間、生き地獄だった!」

 声が枯れるほど泣き喚き、その情念に満ちた瞳には悔恨と苦痛が深く刻まれている。

 泥にまみれるほど卑屈な彼の姿を見て、私の心臓が不意にトプンと跳ねた。

 もし、以前の私なら。

 愛に目が眩んでいたあの頃の素子なら。

 自分をこれほど深く愛する男がここまで泣き崩れる姿を見れば、間違いなく絆され、彼の戯言を信じ込み、両手を広げて許していただろう。

 だが、まさに口を開きかけたその瞬間。

 玄関の鏡に映っていた、血まみれの自分の姿が、再び脳裏で爆発した!

 こんなものは悔恨でも何でもない。

 毒蛇が私の首を噛みちぎる機会を、再び窺っているだけだ。

 深く息を吸い込み、胃から込み上げる吐き気を無理やり抑え込むと、葛藤と苦痛、そして微かな同情を交えた表情を作った。

「悠介……私、もうあなたを信じていいのか本当に分からない」声を震わせる。

 私に揺らぎの兆しが見えた途端、悠介の瞳の奥に極めて巧妙に隠された狂喜が閃いたが、彼はそれを完璧に隠し通した。

「チャンスをくれ、最後の一回だけでいい! 座ってちゃんと話そう、な?」狂ったように哀願する。

「……分かった」私は伏し目がちに答えた。

「仕事が終わったら、五番街のカフェで」

「分かった! 待ってる! 絶対に証明してみせるから!」悠介は興奮冷めやらぬ様子で立ち上がり、何度も礼を言いながら去っていった。

 午後七時、五番街のカフェ。

 窓際の席に座り、悠介が足早に入ってくるのを眺める。

 わざわざシャワーを浴びてきたのか、私が一番好きだったあの白いシャツを着ていた。

 彼が席に着くや否や、私はプリントアウトした請求書を真っ直ぐ彼の前に突き出した。

「あなたの一家が私の家から略奪した品のリストよ」

 彼を真っ直ぐに見据え、一切の抑揚を排した声で告げる。

「総額で15万ドル以上。監視カメラの映像も合わせれば、一家揃って十年間刑務所に入るには十分すぎるわ」

 悠介の顔に張り付いていた愛情深い表情が、一瞬にして凍りついた。

「素子、聞いてくれ、違うんだ……」

「私たちはもう別れたのよ、悠介」私は容赦なく彼の言葉を遮った。

「交渉の余地は一切ない。今すぐ、盗んだ物をそっくりそのまま返しなさい。そして、二度と私の前に姿を現さないで。でなければ、明日この証拠を持って警察に行くわ」

 手際よく、すべてを清算する。

 悠介は私を死んだような目で見つめた。

 たっぷりと一分間、重苦しい沈黙が続いた。

 不意に、彼は空気の抜けた風船のように椅子にへたり込んだ。

「……分かった」

 彼の声は酷く掠れていた。

「君の言う通りにする。品物は全部返すよ。すべて……俺が悪かった」

 彼は私を深く見つめ、その瞳には溶かしきれない悲哀と妥協が満ちていた。

「すべてが終わるなら、素子」

 彼はテーブルの上のコーヒーを手に取り、私へ差し出した。

「このコーヒーを、俺たちの一年間の関係への別れの杯にしよう。乾杯して、これからはもう、お互い一切の貸し借りなしだ」

 完全に運命を受け入れたかのような彼の顔を見て、張り詰めていた私の神経が、この瞬間ようやく僅かに緩んだ。

 それもそうね。絶対的な証拠を前にして、妥協する以外に彼に何ができるというのだ?

 私は目の前のカフェラテを手に取り、彼のカップに軽く当てた。

「貸し借りなしね」

 顎を上げ、温かいコーヒーを大きく一口飲み下した。

 終わった。この悪夢も、ようやく完全に終わったのだ。

 しかし。

 一分後、目の前の景色がブレ始め、カップの縁が私の視界で二重に分裂した。

 どういうこと?

 立ち上がろうとしたが、両脚がまったく言うことを聞かない!

 ガチャンッという音と共に、手にしていたコーヒーカップがテーブルに叩きつけられ、コーヒーが床に飛び散った。

「あなた……」必死に口を開くが、喉からは微かなかすれ声しか漏れない。

 巨大な津波のような暗闇が、瞬く間に私を完全に呑み込んだ。

 どれほどの時間が経ったのだろうか。

 再び意識を取り戻した時、真っ先に鼻を突いたのは、嗅ぎ慣れた柔軟剤の香りだった。

 体の下には、極上の柔らかさを誇る高級マットレス。

 私……自分の寝室にいるの?

 ハッと目を開こうとしたが、まぶたが鉛のように重い。

 薬を盛られた!

 あのコーヒーだ!

 その時、ベッドの傍らで毛のよだつような足音が響いた。

「悠介、私の言った通りでしょ。こういう高慢なクズに、理屈なんて通用しないのよ」

 加美恵の声だ! あの悪辣な毒蛇!

 直後、氷のように冷たい両手が、麻痺した私の頬をゆっくりと撫でた。

「おかえり、俺の愛しい人」

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