第1話
誕生日のその日、私は匿名のショートメッセージを受け取った。
【あなたの夫は浮気しています】
添付されていたのは一枚の写真。
そこには、夫の膝の上に乗る若い女の子が写っていた。金色の巻き髪が肩にふわりとかかり、整った顔立ちにまだ幼さの残る表情。
そして夫――藤原和也(ふじはら かずや)は、その腰を抱き寄せ、顎を少し上げて口元を笑わせている。向ける視線は甘く、慈しむように優しかった。
胸がぎゅっと締め付けられ、両手が震えだす。
そのとき、寝室から和也が出てきた。
私は慌ててスマホを伏せ、キッチンへ向かう。グラスを洗うふりをしながら、蛇口をひねった。
「用事がある。出かけてくる」
背後から聞こえる声は、いつも通り冷ややか。
私は水を止め、振り返らずに尋ねた。
「夜は帰ってきて、夕飯食べる?」
「……ああ」
一拍置いて、彼は続ける。
「寧々が今日帰国した。ちょうど卒業の日だし、みんなで祝う」
藤原寧々(ふじはら ねね)。藤原家の養女で、数年前から海外へ留学していた。私は一度も会ったことがない。
夫は義妹の卒業日は覚えているのに、私の誕生日は――きれいさっぱり忘れている。
爪が掌に食い込む。平静を装って言った。
「わかった」
写真のことは聞けなかった。真実を知るのが怖かったから。
午後いっぱい、頭の中はあの写真で埋め尽くされた。
いったいどんな子なら、あの高嶺の花みたいに冷たい夫が、あんな柔らかな笑顔を見せるのか。
夜七時。チャイムが時間通りに鳴った。
和也は寧々を連れて玄関に立っていた。
金色の巻き髪を見た瞬間、私は息を呑む。
――浮気の相手は、養妹だった。
寧々は写真と同じ、シャンパン色の小さなドレス。甘い笑顔で、世間知らずの小姫様そのものだ。
彼女は親しげに和也の腕に絡みつき、私を挑むように見回した。
「これが、葵? 思ってたのとちょっと違う」
和也は愛おしげに彼女の手の甲を軽く叩く。
「入れ。用意したプレゼント、見てみろ」
最初から最後まで、彼の視線は私に一度も止まらなかった。
私はただの、ドアを開ける係のメイドみたいに。
黙って二人の後ろについていく。
和也はローテーブルの下から、丁寧に包まれたギフトボックスを取り出し、寧々に手渡した。
それは、数日前に私が街で見かけたネックレスだった。少し長く眺めていたら、彼は「お前には似合わない」と言ったもの。
違う。似合わないんじゃない。最初から“いい妹”に贈るつもりだっただけだ。
「ありがとう、お兄ちゃん! やっぱりお兄ちゃんがいちばん!」
寧々はぴょんと背伸びして、和也の頬にちゅっとキスをした。
和也は避けない。むしろ手を伸ばし、少し乱れた巻き髪を優しく整えてやる。
――私が一度も見たことのない、温度。
食卓でも話題は、寧々の海外での成績のことばかり。
「お兄ちゃん見て。国際デザイン賞、取ったの」
得意げに賞状を見せつけ、ちらりと私を見る。
「葵も昔デザインやってたって聞いたけど、作品とかある? 見せてほしいな」
「あるわけないだろ」
和也は彼女の皿にステーキを置き、淡々と言った。
「ただの専業主婦だ」
フォークを握る手に力が入り、関節が白くなる。
三年前、私は国内屈指の美術大学を首席で卒業し、“百年に一人の天才”なんて持て囃された。彼はもう忘れているのだろう。
それでも彼の事業を支えるため、海外のトップデザイン会社への道を捨て、主婦になったのに。
寧々は無垢な大きな目をぱちぱちさせ、甘ったるい声で言う。
「お兄ちゃん、そんな言い方しないで。葵、家のこと全部やってくれて大変だもん。私なんて不器用で、絵しか描けないし、ごはんも作れない」
そう言って皿を指し、ぷうっと唇を尖らせた。
「ねえお兄ちゃん、これ切りにくい」
和也は迷いなく彼女のステーキを自分の皿へ移し、ナイフで手際よく一口大に切ってから、また戻した。
流れるような動作。何度もやったことがあるみたいに。
結婚して三年。私のためにステーキを切ったことなど一度もない。そもそも一緒に食事をすること自体、ほとんどなかった。
当時、和也に結婚を迫ったのは私だ。
長年の片想い。彼が独身だと知るや、学校すら放り出して「結婚したい」と泣いて喚いた。
両親は私に甘く、藤原家へ縁談に出向いた。
藤原家は上流社会での我が家の立場を警戒し、あっさり了承した。
誰の目にも、私たちは政略結婚。彼は私を愛していない。
実際、結婚しても彼は私に触れなかった。同じベッドで眠る夜すら数えるほど。
性格の問題だと思い込んでいた。――あの写真を見るまでは。
思い出した瞬間、胃がぐらりと揺れ、耐えきれずに立ち上がった。
和也が真っ先に顔をしかめる。
「何を騒いでる。礼儀もないのか」
「気分が悪いの。先に休む」
いつものように俯いて従うことはせず、そのまま部屋へ戻った。
胸が詰まり、息が苦しい。
ドレッサーの前に立ち、鏡に映る青白い自分を見つめる。
寧々の明るく整った顔が脳裏によぎり、目の奥が熱くなった。
そのとき、スマホが鳴った。
「九条様でしょうか。モード・アトリエの人事です。以前ご連絡差し上げた者ですが」
電話越しの男の声は穏やかだった。
九条――私の旧姓。かつての私は九条葵(くじょう あおい)としてデザイン業界で意気揚々と活躍し、無限の可能性を秘めていた。
モード・アトリエは海外トップクラスのデザイン会社。三年前、私に声をかけてくれたのに、私は和也のために断った。彼を支えるため、専業主婦になったのだ。
その後も何度か誘われたが、ずっと辞退してきた。
「どうしました」
声が掠れる。だが、すでに決心はついていた。私は九条葵として、もう一度やり直すのだ。
「A市で非常に重要なプロジェクトがありまして。ディレクターがあなたのポートフォリオを拝見し、とても高く評価しております。ぜひチームに参加していただき、メインデザイナーとして……ご検討いただけないかと」
「検討は要りません」
私はスマホを握りしめ、静かに言った。
「行きます」
「ありがとうございます! 九条様、いつでも歓迎いたします。手続きはメールでお送りします」
通話を終えて間もなく、和也が部屋に入ってきた。
「途中で戻るな。寧々がどれだけ気まずいと思う?」
私への心配は一言もなく、義妹への気遣いだけ。
私の目光は彼を見据え、問う。
「今日が何の日か、知ってる?」
彼は眉を寄せ、不機嫌そうに言った。
「寧々の卒業日だろ」
――やっぱり、私の誕生日は覚えていない。
その瞬間、心の底がすとんと抜けた。最後の淡い期待すら消え失せる。
三年間の尽くしは、壮大な笑い話だった。
私は淡々と告げた。
「離婚しましょう」
