第2話

和也の表情が一瞬固まる。やがて目を細めた。

「自分が何を言っているのか、わかっているのか」

「わかってる」

私は彼の視線を受け止めたまま、赤く滲む目で言う。

「この結婚、最初から私の独りよがりだった。もう続けたくない」

「続けたくない?」

彼は冷たく笑う。

「当時、死ぬほどしがみついてでも俺と結婚したがったのは誰だ? 今さら続けたくないだと?」

言葉が刃みたいに胸へ刺さった。

そうだ。私が勝手に夢も尊厳も捨てて、彼を選んだ。

そして今、これが報いなのだろう。

「私が見る目なかった。……もう離婚したい」

疲れ切って目を閉じた。

和也はしばらく黙って私を見つめ、硬い声で言った。

「今日が何の日か覚えてないから、離婚するって?」

彼の目は、理不尽に騒ぐ女を見るそれだった。

「もういい」

私は首を振る。

「三年よ。あなたは一度も私を妻だと思ってくれなかった。こんな生活、十分。疲れた」

部屋に沈黙が落ちた。

やがて、氷みたいな声。

「いい。離婚だ。後悔するなよ」

彼は大股で出ていき、扉が乱暴に叩きつけられた。

私はドレッサーに寄りかかり、足が震えて立っていられない。

引き留められないことはわかっていたのに、いざ現実になると胸の奥が妙に痛かった。

長年愛した男に、青春も未来も差し出して――返ってきたのは「どうでもいい」の一言。

私は黙ってスーツケースを引っ張り出し、荷物をまとめ始めた。

持っていくものなんてほとんどない。結婚して三年、自分の物が驚くほど少ない。

片づけ途中、ベッドサイドの写真立てが目に入った。

唯一のツーショット。結婚式の日の写真だ。

私だけが満面の笑みで、和也は無表情のままカメラを見ている。

写真立てを手に取り、伏せて置いた。

虚しい思い出は、ここに置いていく。

一時間後、私はスーツケースを引きずって部屋を出た。

階段のところで、寧々が和也の隣に座り、両腕で彼の首に抱きついて、耳元で何か囁いているのが見えた。

私を見つけると、手にした荷物に気づき、寧々はすぐに泣きそうな顔で彼の袖を引っ張った。

「兄さん……葵さん、本当に出ていくの? 私が帰ってきたせい? 私が怒らせちゃった?」

「関係ない」

和也は私を一瞥し、陰気な顔で言う。

「勝手に拗ねてるだけだ」

寧々は小走りで近づき、わざとらしくスーツケースを掴んだ。

「葵さん、怒らないで。私が原因なら、私、外で暮らすよ? 兄さんともう一回ちゃんと話して――」

その拙い芝居を見ても、心は何も動かない。

「手を離して」

無表情で言う。

「離さないなら……本当に行かないよ」

寧々はびくっとして、すぐに手を放し、半歩下がった。

私はそのまま玄関へ向かう。

和也の横を通り過ぎるとき、低い声が聞こえた。

「行かせろ。俺から離れて、どれだけ保つか見ものだな」

胸が鋭く痛んだ。

私は扉を開け、振り返らずに外へ出た。

夜は深く、住宅街の街灯は薄暗い。

スーツケースを引きながら歩くと、頬を撫でる風が妙に自由を感じさせた。

スマホが震える。モード・アトリエの人事から入社通知。

了承の返信をし、帰り道で弁護士にメッセージを送る。離婚協議書の準備を依頼した。

実家の門の前で、私はしばらく立ち尽くした。

和也と結婚するために、両親の忠告を振り切った。今さら惨めに戻って、受け入れてもらえるだろうか。

迷っていると、扉が開いた。

母の九条奈央(くじょう なお)がスーツケースを引く私を見て一瞬固まり、すぐにすべてを察したように目を赤くした。

「葵……」

母は駆け寄り、強く抱きしめる。

「どうしてこんなに痩せたの……」

物音に父の九条直樹(くじょう なおき)も出てきて、私の姿を見るなり眉を寄せた。

「どうした。和也に何かされたのか?」

私は首を振り、そして頷いてしまい、涙がぽろぽろ落ちた。

考えすぎだった。受け入れてもらえないなんて。私を一番愛しているのは、いつだって両親なのに。

「中へ。話はそれから」

母は私の手を引き、使用人に言いつける。

「田中さん、葵の好きなお菓子、すぐ用意して」

リビングは昔のまま。ほのかな花の香りが漂う。私が一番好きな匂い。

家を出て三年、それでも母は覚えていて、ずっと残してくれていた。

私は両親に、和也と離婚するつもりだと告げた。

母は理由も聞かずに言い切った。

「やっとか! あなたはもっと早く離婚すべきだったのよ。家柄も才能も、和也なんて釣り合わない。あのとき九条家が助けなかったら、藤原グループなんてとっくに潰れてたわ!」

父は少し黙り、厳しさの中に痛みを滲ませた。

「お前は、和也に知られないように隠してくれって言ったな。自尊心を傷つけるのが怖い、と。……で、この結果か」

私は言い返せなかった。自分の数年間が、あまりに情けない。

田中さんがお菓子を運んできて、目を赤くする。

「お嬢様……奥様は毎日お嬢様のことを気にして。帰ってきてくれてよかった。食べたいものがあれば、私が毎日作りますから」

家族の眼差しを受けると、胸がじんわり熱くなる。

この三年間、私は藤原家で我慢ばかりしていたけれど、本来は手のひらで大切に育てられた娘だったのだ。

その夜、風呂を済ませて寝間着のままベッドに寄りかかり、メールを確認した。

モード・アトリエから届いた資料は高級ホテルのデザイン案件。和也も狙っていたプロジェクトだと記憶している。

読み込んでいると、スマホが鳴った。

和也からだ。

二秒迷って、出た。

「葵……何のつもりだ」

抑えた声の奥に苛立ちが滲む。

「藤原社長、協議書は届きましたよね」

私は淡々と言う。

「早めに署名してください。円満に終わらせましょう」

「そんな話じゃない!」

声が冷え切って恐ろしい。

「原因欄に書いたあれは何だ。どういう意味だ?」

一瞬、何のことかわからず、すぐに思い出す。弁護士に勧められ、婚姻破綻の理由をいくつも具体的に列挙した。

「どの条項に異議が?」

「とぼけるな!」

彼の声が荒れる。

「俺が……お前の性欲を満たせないって。葵、俺が“できない”って言ってるのか?」

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