第5話
これが、私が何年も愛してきた男だ。
寧々の一本の電話で、発作で苦しむ私をいとも簡単に道端へ捨て去る。
和也が私を愛していないことなど、最初からわかっていた。それでも、ここまで非情になれるのかと思い知らされ、心臓がぎゅっと痛む。
今となっては、胸の痛みに比べれば身体の痛みなどどうでもよかった。
無理やり引きずり出される前、私は薄い寝間着姿だった。
季節はすでに秋。家の中ならちょうどいいが、夜風に吹かれるとひどく冷える。
冷たい風が吹き抜け、ぶるりと身震いした。
先ほど和也に担ぎ上げられた拍子に、スマホを落としてしまった。拾う隙などあるはずもない。
だが幸い、車はそれほど遠くまで来ていない。歩いて戻っても十数分の距離だ。
痛みを堪えて歩き出す。背中は冷や汗でびっしょり濡れていた。
頭がぼうっとして、思考が止まりそうになる。
帰り道、和也のあの態度の落差が、嫌でも脳裏に蘇ってきた。
視界がだんだんと滲み、足元がおぼつかなくなる。
「葵!」
意識が遠のきかけたそのとき、不意に梨乃の声が響いた。
霞む視界の中、彼女がこちらへ駆け寄ってくるのが見える。
助かった。
梨乃は身体ごと私を支え、慌てた様子で口を開いた。
「どうしたの? また胃が痛むの?」
そう言いながら、私を車へと乗せてくれる。
頷いたものの、喉が詰まって声が出ない。
梨乃は車内を少し探し回り、パンを一つ差し出してくれた。
「よかった、まだ残ってた。とりあえずこれお腹に入れて。家に戻ろう」
私はパンを乱暴に頬張る。耳元では梨乃の愚痴が続いていた。
「やっぱりあのクズ男は最低。発狂して連れ出したと思ったら道端に放置? 後をつけてきて正解だったわ。私、絶対に許さないんだから」
鼻の奥がつんとして、涙がぽろぽろと零れ落ちた。
胃に少し食べ物が入ると、痛みもわずかに和らいだ。
梨乃は私を家まで送り届け、薬まで用意して飲ませてくれた。
ベッドに横たわり、私のために甲斐甲斐しく動く彼女を見ていると、胸がじんわりと温かくなる。
「梨乃……ありがとう」
私の声を聞いて、梨乃はぬるま湯の入ったコップを渡し、優しく言った。
「いるよ。どこか辛かったらすぐ言って。今夜は私が泊まるから」
私は頷き、湯を飲み干した。
「それにしても和也は人間のクズね。あんな薄着で放り出すなんて。早く離婚しなよ、あんな男、次に何やらかすかわかったもんじゃないわ」
私の弱り切った姿を見て、梨乃は手を変え品を変え和也を罵倒する。
私は苦笑し、首を振って言った。
「彼は私を愛してない。愛してるのは寧々よ。だから二人の間で選ばせたら、私はいつだって捨てられる側なの」
さっきも、これまでの数え切れない出来事もそう。選択肢に寧々がいる限り、私は必ず見捨てられ、忘れ去られる。
「……もういいや。休みたい。彼の話はやめにしよう」
私がそれ以上語りたがらないのを察し、梨乃も素直に口を閉ざした。
「わかった。今日は一緒に寝よ。ゆっくり休んで」
深夜。不意にスマホが何度も鳴り続けた。
通知音に驚いて目を覚まし、無意識にベッドサイドのスマホを手探りする。
午前二時。
こんな時間に、一体誰からのメッセージだろうか。
上半身を起こす。隣では梨乃が規則正しい寝息を立てていた。
彼女を起こしたくなくて、画面の明るさを最小に絞る。
だが、届いたメッセージを見た瞬間、指が勝手に強ばった。
画面に表示されていたのは、数枚の写真。
その被写体は――私の夫だった。
瞳から光が消えていく。和也が寧々のもとへ行ったことはとうに知っていた。それでも、いざ目の前に突きつけられると、心がざわつくのを抑えきれない。
写真の中で、和也の服は無造作に放り出され、半身を向けた上半身は裸だった。鍛え上げられた腹筋があらわになっている。
そしてその鎖骨には、くっきりと歯型が残されていた。
女の長い髪が、彼の腕に絡みつくように散らばっている。
これを見ただけで、二人の間に何があったかなど容易に想像がついた。
それだけでなく、浴室にいる和也の後ろ姿を捉えた写真まであった。
私はそれらを眺め、ただただ滑稽に感じた。
スマホはまだ鳴り続けている。
寧々からのメッセージだ。
【葵、お兄ちゃんはあなたのことなんて全然愛してない。愛してるのは私。早く離婚して】
【わかるでしょ、今お兄ちゃんは私と一緒にいるの】
私は画面を睨みつけ、素早く文字を打ち返した。
【既婚者を誘惑して自慢? 泥棒猫のくせに随分と誇らしげね】
返信を見るや否や、寧々から直接電話がかかってきた。
着信画面を見て拒否するつもりだったのに、指が勝手に応答ボタンを押してしまう。
繋がった途端、寧々のふんぞり返ったような得意げな声が響いた。
「強がらないでよ。愛されない人は負ける運命なの。さっきも見てたでしょ? 私が電話一本かけたら、お兄ちゃんはすぐ私のところに来たじゃない」
初めて会ったときから彼女の魂胆には気づいていたが、まさかここまで大胆だとは思わなかった。
和也と寝た直後に、わざわざ私にマウントを取ってくるなんて。
私は淡々と、気にも留めない様子で口を開いた。
「彼が私を愛してるかどうかはあなたが口を出すことじゃない。仮にあなたを愛してても、あなたは藤原家の養女よ。世間に後ろ指をさされるのが平気なら、どうぞお好きに。……彼にそれができると思う?」
その言葉は確実に寧々を刺激した。彼女の声が一段と甲高くなるが、それでも口では負けを認めない。
「それが何よ! お兄ちゃんが私を愛してさえいれば、そんなの関係ない!」
私は首を振り、これ以上言い争う気をなくした。
「成功するといいね」
そう言い捨てて、通話を切った。
寧々がそこまで正妻の座を欲しがっているのなら、本妻である私も彼女に“名分”を用意してあげなければ。
先ほどの写真をすべて保存し、寧々とのやり取りもスクリーンショットに収める。
それから自分のアカウントにログインし、画像とトーク履歴をまとめて投稿した。
事情を知らないネット民にもわかりやすいよう、わざと意味深なタイトルを添えて。
『夫の婚内新恋愛を祝福します。妹ちゃん、早く正妻になれるといいね』
深夜にもかかわらず、投稿はあっという間に野次馬たちの目を引いた。
和也の顔は半分しか写っていなかったが、その横顔だけで正体に気づく者がいた。
彼もこの街ではそれなりに名が知れており、世間への露出も少なくないからだ。
コメント欄には、和也本人かどうかを確認する書き込みが相次いだ。
私はわざと返信はせず、代わりにそのコメントに“いいね”だけを押した。
その反応を見て、ネット民は主人公が和也であることを確信したようだ。
投稿の閲覧数とコメントは瞬く間に跳ね上がっていく。
話題が完全に炎上したのを見届け、私は満足してスマホを伏せた。
