第7話
私は二人を押し退けるように車に乗り込み、エンジンをかけて走り去った。
帰り道、突然一通のメールが届いた。
モード・アトリエからの採用通知だった。初出社は明日。
モード・アトリエといえば、業界トップクラスのデザイン会社だ。
無事に入社できることは、ここ最近の私にとって唯一の朗報だった。
翌日。
私は初稿のデザイン案を持ってモード・アトリエへ向かい、入社手続きを済ませた。
モード・アトリエの代表である雪見晴美(ゆきみ はるみ)は、私が海外留学していた頃の校友だ。
これまで面識はなかったのに、不思議と話が合い、すぐに打ち解けた。
その夜、晴美の計らいで私の歓迎会が開かれた。場所は有名な黄昏ノバー。
集まったのは会社の社員たちだ。
今日が初対面だったけれど、彼らと接するのにそれほど窮屈さは感じなかった。
酒の席で、晴美が率先してグラスを掲げた。
「ユリがモード・アトリエのメインデザイナーとして加わってくれたことを歓迎して、乾杯」
そう言って、彼女は私たちの前でグラスの酒を一気に飲み干した。
和也と結婚する前、私はずっとユリという名で仕事をしていた。
表舞台から退いて久しいが、この場にも私のことを知っている人が何人かいた。
晴美の厚意に応え、私もグラスを上げて口をつける。
だが、酒を喉に流し込んだとき、視界の端に見覚えのある影が映り込んだ。
世間は狭いというが、まさか飲みに来た先で和也と寧々に鉢合わせるなんて。
私は少し目を伏せ、できるだけ平静を装って視線を外した。
それでも、晴美は私の様子の変化に気づき、声をかけてきた。
「ユリ、あそこの人たち知り合い? 挨拶してくる?」
私は首を振り、きっぱりと断った。
「ううん、知らない人。ちょっと見ただけ」
和也のせいで、今日のせっかくの気分を台無しにしたくなかった。
私が否定すると、晴美もそれ以上は深く聞いてこなかった。
その話題はそれきりになった。
何度かグラスを重ねるうち、アルコールが回って頭がふわふわしてきた。けれど、バーに響く重低音の音楽が、かえって妙な高揚感をもたらしてくれる。
同僚たちに乗せられ、私はダンスフロアの中央へ引っ張り出された。
踊りなんて踊れないけれど、この賑やかな空気に混ざりたくて、晴美の見よう見まねで音楽に合わせて身体を揺らした。
フロアの曲が次々と切り替わるなか、私はこれまでにないほどの解放感を味わっていた。
結婚して以来、私はずっと和也を中心に生きてきて、いつの間にか自分自身を見失っていたのだ。
すっかり気分が乗っていたそのとき、突然手首を強く掴まれ、強引にフロアから引きずり出された。
状況を理解する間もなく、私は和也に引っ張られてバーの外へ連れ出された。
彼は容赦なく、私を放り投げるように手を離した。
秋の夜風が頬を打ち、酔いが少し醒める。
怒りを滲ませた目の前の男を見て、私は思わず眉をひそめた。
「また何の発作?」
和也は冷笑し、その目の奥で怒りの炎を燃やしている。
「ここがどこだかわかってるのか。そんな格好で男の中に混じって踊って……恥を知れ」
その言葉に、私は無意識に自分の服装を見下ろした。
今日着ているのは赤いキャミソールのロングドレス。元々はそれに合わせて米色のショールも羽織っていた。
だが、バーの中は暖房が効いていたから、ショールは脱いでしまったのだ。
目を吊り上げる和也を見て、私は呆れ果てた。
「この格好で恥知らずなら、結婚してるのに浮気するのはどうなの?」
私は和也に一切の遠慮もせず、真っ向から言い放った。
自分は寧々を連れてバーに来るくせに、私が来るのは許さないなんて。どの口が言っているのか。
これまで、私が彼の前で感情を露わにしたことなど一度もなかったからだろう。
和也の目には複雑な色が浮かび、私を射抜くようにじっと見つめてきた。
「まだ離婚してない以上、俺はお前の名目上の夫だ。それに、この前のトレンドの件……ちゃんと説明してもらうぞ」
私は冷ややかな態度を崩さず、苛立たしげに返す。
「説明? あなたがやったことじゃないの?」
和也が口を開く前に、男の声が私たちの会話に割って入った。
「和也、なんで途中でいなくなるんだよ。探したぜ」
声をかけてきたのは、和也の友人である赤松烈(あかまつ れつ)だ。
彼は遊び人の御曹司で、普段は誰も見下しているくせに、和也にだけは従順だった。
私が背を向けていたせいで、彼はすぐには私だと気づかなかった。
和也が私と一緒にいるのを見て、烈はわざとらしく茶化した。
「お前、そういう趣味もあったのか。どうやら俺、お邪魔だったみたいだな」
烈の言葉に、和也の顔色はさらに陰り、低い声で吐き捨てた。
「……葵だ」
「は? 葵さん? マジで?」
和也の答えを聞くや否や、烈はすぐに私の前へ回り込み、顔をまじまじと覗き込んできた。
こんなタイミングで、私が和也と一緒にいることが信じられないらしい。
バーの中には寧々が待っているのだから。
私だと確認すると、烈はとってつけたような愛想笑いで挨拶してきた。
「いやあ、悪い悪い。俺、飲みすぎて目がおかしくなってたわ」
私は愛想笑いを浮かべただけで返事はせず、視線を和也に戻した。
「言うべきことは言ったわ。これ以上、説明することなんてない」
そう言って、背を向けて立ち去ろうとした。
だが和也は私を逃がす気などなく、強引に私の手首を掴み、烈に目配せをした。
「俺は葵と話がある。お前は先に戻れ」
和也の視線を受け、烈は空気を読んで背を向けた。
広い空間に、また私たち二人だけが残された。
「寧々に薬を盛ったのはお前か」
和也は私を睨みつけ、再び低い声で問い詰めてきた。
寧々がその件を私に擦りつけてくるとは思わなかった。
そんないわれのない濡れ衣、絶対に被るつもりはない。
私は考えるまでもなく、即座に否定した。
「そんな暇じゃないわ。あなたたちがどうなろうと興味ない。私が知りたいのは、いつ離婚届にサインして私を自由にしてくれるか、それだけよ」
和也の顔色が変わる。その目には依然として疑念が渦巻き、私の言葉の真偽を測っているようだった。
彼は離婚の件には直接答えず、意図的に話を逸らして再び追及してきた。
「じゃあ、トレンドの件はどうなんだ。あれもちゃんと説明しろ」
あの時、チャットの履歴を公開するにあたって、私はまだ寧々に情けをかけ、彼女のアイコンとアカウント名にモザイクをかけていた。
だが、その配慮がこんな謂れのない誤解を生むとは思いもしなかった。
「説明することなんてないわ。写真もやり取りも全部事実だもの。答えが知りたいなら、自分の妹に聞けば?」
そう言いながら、私はスマホを操作し、モザイクなしの完全なやり取りを彼の目の前に突きつけた。
画面に映る内容を見た和也の表情が、ひどく複雑に歪んでいった。
