第2章

 今日は司のホッケーの試合の日だった。

「結衣、リップグロス取って」麗奈は鏡の前でチアスカートの位置を直しながら、私のほうを見もしない。

 私はポーチを探ってそれを取り出し、差し出した。

 麗奈は唇にたっぷり塗り、得意げな満足感を滲ませた声で言う。

「最近、司がやたらこっちに来るのよね。あんなに女の子が追いかけてるのに……ねえ、結衣。本当のこと言って。あんたも、司のこと好きになりかけてるんじゃないの?」

 私は表情を完璧におとなしく保った。

「え? ち、違うよ! 麗奈、まさか。司みたいな人……みんな知ってるじゃない。司が見てるのは麗奈だけだって」

 そのお世辞こそ、彼女が欲しかった言葉だ。麗奈は心底満足したように笑った。

 麗奈は司が自分にどれほど執着しているかをちゃんと分かっている。けれど彼の献身も、彼女にとってはまたひとつのキラキラしたトロフィーにすぎなかった。生徒会役員の息子に執拗に追いかけ回される高揚感に酔いすぎて、早々に恋人関係で縛られる気なんてない。糸一本でぶら下げたままにしておくのが好きなのだ。

 前の人生では、今日がすべての歯車が狂い始めた日だった。

 試合の直前、麗奈はこの廊下でつまずきかけた。

 たまたま通りかかったホッケー部主将の結人が、完璧なタイミングで彼女を受け止める。

 そして第一ピリオドの間ずっと、麗奈はサイドで結人の名前を叫び続けた。

 司は嫉妬で正気を失った。仕返しのつもりで、試合後に私を壁際へ追い詰めて告白してきた。

 そこから地獄への転落が始まった。

 でも、今回は違う。

 私は歩幅を計算し、わざと押し寄せる人波に横へ押し流されるようにした。

 次の瞬間、大きくて安定した手が私の肩をがしっと掴み、倒れないよう支える。

「結衣、目ついてないの!?」麗奈が金切り声を上げ、刃物みたいな目で私を睨みつけた。

「ドジみたいにフラフラしないで! 恥かかせる気? あんたが転んで私のチアを台無しにしたら、マジで……」

「ごめん……」私は小さく呟いた。

 肩を押さえる手が、ほんの少し強くなる。

 見上げると、結人だった。ヘルメットの下で薄い金髪が後ろに流され、茶色い瞳には本気の心配が浮かんでいる。

「大丈夫か? けっこう強くぶつかっただろ」

「平気です」私はそっと答え、小さく、感謝を込めて笑った。

 結人が返事をする前に、重く息苦しい圧が私たちの上に落ちてきた。

「なにかあったのか?」

 司が視界に入る。フル装備で、肩にスティックを担いでいるのに、漆黒の目は私と結人の間の、ほんの数センチの隙間だけを凝視していた。顎の筋肉がぴくりと動く。

 麗奈がぱっと明るい顔になり、司に飛びついて腕にしがみつく。

「司! 試合、準備できてる? あんたのためにチア、練習してきたんだから」

 司は彼女を完全に無視した。鋭い視線は私に縫い付けられたまま。

「お前」司が冷たく命じる。

「今日は外で、俺の応援をしろ。でかい声で」

 麗奈の体がこわばる。

「司、私がチアキャプテンよ。応援するのは私でしょ」

 私はすぐに身を縮めた。

「麗奈の言うとおりだよ。麗奈なら、外でもすごくうまくやれるよ、司」

 司の返事を待たない。私は頭を下げ、怯えた下っ端を完璧に演じながら二人の横をすり抜けて小走りに去った。

 少し歩いたところで、誰かの手がそっと私の肘を掴んだ。

 結人がそこに立っていて、気まずそうに首の後ろを擦っていた。

「なあ、急に呼び止めて悪い。そういえば、きちんと自己紹介してなかったって気づいてさ。俺、結人。よかったら……連絡先、教えてもらえない?」

 私は、首筋までじわじわ上っていく彼の赤みを見つめた。

 前の人生では、手遅れになるまで結人とほとんど関わりすらなかった。

 私はうなずき、スマホを取り出す。

「私は結衣。さっき助けてくれて、ありがとう」

 それから二時間後、試合終了のブザーがけたたましく鳴り響いた。

 ロッカールームへ続く廊下は人でぎゅうぎゅうだ。私は壁際に身を寄せ、冷えたスポーツドリンクを握っていた。

 廊下の向こうで、麗奈が司に向かって一直線に駆けていくのが見えた。

 私は二人を無視して、重い両開きの扉を押し開けて出てきたばかりの結人のもとへまっすぐ歩いた。顎先から汗がぽたぽた落ちている。

「はい」私はボトルを差し出す。

「いい試合だったよ」

 結人の顔がぱっと明るくなる。

「結衣! 俺の試合、最後まで見て――」

 分厚いグローブの手が飛び出し、私の手からボトルを乱暴にひったくった。

「こいつ、誰の試合でも見てるだろ」司が嘲るように言い、キャップをひねって外して長く飲み干す。「媚びるのが好きなんだな、結衣?」

 麗奈はそのやり取りを全部見ていた。笑顔がすっと消える。

「司? さっき私が飲み物、渡したじゃない」

 司は彼女を完全に無視した。どすんと一歩踏み込み、私を壁と自分の体で挟み込む。

「結衣。お前、俺のこと好きだろ。付き合おう」

「明日の夜、夕食だ。車を回す」

 麗奈の顔から血の気が引いていく。

 私は目を大きく見開き、完全にパニックになったふりをした。

 内心では鼻で笑う。司――触れられない金持ちの御曹司が、私に自然に惚れるはずがない。これは麗奈がサイドで結人に構ったことへの、くだらない嫉妬の見せつけだ。私なんて、彼女の反応を引き出すための安っぽい小道具にすぎない。

「……な、何を言ってるのか分からない」私はちょうどいい震えを声に混ぜてどもった。

「そんなふうに司のこと、好きじゃない。私、行かなきゃ」

 私は身を翻し、廊下を駆けだした。

 出口の扉を押し開ける。けれど数歩も進まないうちに、麗奈が追いついてきた。

 腕を組んで行く手を塞ぎ、私を上から下まで値踏みしてから、荒っぽく嘲るように鼻で笑う。

「へえ、意外。結衣、司とくっつく度胸があったんだ」

 艶々にグロスを引いた唇が、意地の悪い笑みに歪む。

「ずっと私の目立たない影みたいにくっついてたくせに、実は長期戦だったわけね。ついに寝て取り入れれば、これから先ずっと面倒な奨学金の返済も気にしなくて済むって?」

 私は必死に首を振った。

「ち、違う……麗奈、私は――」

「白々しい」麗奈がぴしゃりと遮る。

「あんたみたいな『全額奨学生の子』がどうやって動くか、知らないと思った? 必死にうちの輪に入りたくて、上に上がれるならどんなチャンスにも爪を立てる。そういうの、何百回も見てきた」

 麗奈は脅すように一歩近づき、悪意の喜びで瞳をきらつかせる。

「仮に司があんたを気に入ったとしてもさ。司の父親――理事の人が、まともな服一着買えない貧乏でみじめな寄生虫を、家の玄関に通すと思う?」

 麗奈。私が欲しいのは、ただの愛情なんかじゃない。

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