第2章
こめかみがまだズキズキと痛む。
目を開けると、天井の華美なクリスタルシャンデリアをぼんやりと見つめた。昨夜は、この見慣れないベッドで何度も寝返りを打った。隼人の馬鹿げた嘘が、頭の中で何度も繰り返される――「彼が君の彼氏だ」。
馬鹿馬鹿しい。三年間付き合った彼女は一夜にして他人になり、会釈を交わす程度の仲だった隼人の仕事仲間、譲司が、どういうわけか不思議と私の「恋人」になっていたなんて。
ああ、隼人。あなたの別れの手口も、実に斬新で独創的ね。自分の彼女を荷物みたいにまとめて、人に押し付けるなんて?
キッチンからカチャカチャという軽い物音がする。譲司が朝食の準備をしているのだろう。
さあ、演技の始まりだ。
わざと物音を立てると、すぐに足音が近づいてくるのが聞こえた。
「麗華、起きたのか?」譲司がコーヒーを手にリビングへ入ってくる。その声は妙に優しい。「気分はどうだ?」
私は目をこすり、無垢で混乱したような表情を作って見せる。「譲司さん……この機械はなに……」
壁のスマートスピーカーを指さし、わざと戸惑ったように言った。「あの黒いの、何? おしゃべりするの?」
譲司は固まった。「鉄の薔薇」がスピーカーを怖がるなんて、さぞ衝撃的だったことだろう。
「それはスマートスピーカーだ。使い方を教えてやる」譲司は歩み寄り、驚くほど辛抱強い声で言った。「『なあ、アレクサ』って言えば反応する」
「アレクサ……アレクサ……」私は羽のようにか細い声で、恐る恐る呼びかけてみる。「答えてくれないわ……」
「もっと大きな声で言わないと」譲司は思わず笑みをこぼした。「以前の君は、こんなじゃなかった」
以前? 胸がざわついたが、私はさらに混乱した表情を浮かべた。「前の私はどんなだったの? 意地悪だった?」
「意地悪じゃない。ただ……」譲司は言葉を切った。「すごい迫力があった」
私はわざと眉をひそめてみせる。「じゃあ、どうして今の私はこんなに……弱いの?」
譲司は私のか弱い様子を見て、その目に、見覚えのある感情がよぎるのを捉えた――庇護欲だ。
「大丈夫だ、ゆっくりでいい。俺が教えてやる」彼の声は、かつてないほど優しかった。
それから三十分、私は完璧な「機械音痴」を演じきった。コーヒーメーカーに触るのも怖い、電子レンジを使うのもおっかない、しまいにはリモコンの使い方まで、譲司に手取り足取り教えてもらう始末だ。
一つ一つの操作を辛抱強く教えてくれる譲司を見ていると、なんだか……世話を焼かれるのも、案外悪くないかも?
「麗華、本当に何も覚えていないのか?」譲司がようやく尋ねた。
「あなたが、すごく優しいことだけ覚えてる」私は無垢な瞳で瞬きをした。
その一言に、譲司の体は目に見えてこわばった。
ちょうどその時、テレビが自動でスポーツチャンネルに切り替わり、先月の私の試合が映し出された。
画面の中の私は、刃のように冷たい目で、対戦相手をリングに容赦なく叩き伏せている。その一発一発に、破壊的な力が込められていた。
さあ、お芝居の時間よ。
「きゃっ!」私は突然悲鳴を上げた。「あの女の人、怖い! 人を殴ってる! 消して! 早く消して!」
私は譲司の腕にきつくしがみつき、その腕の中に縮こまる。わざと体を震わせながら。
譲司は腕の中で「震える」私と、テレビの中の威圧的なボクシング女王を見比べ、数秒間、完全に呆然としていた。
「大丈夫、大丈夫だ」彼は優しく私の背中を撫でた。「もう消したから」
私は譲司の胸にぴったりと身を寄せ、彼の纏う微かな香水の香りを吸い込む。彼の温かい体温を感じながら。
この人……心臓の鼓動がすごく速い。
これは、演技じゃない気がする。
「譲司さん、どうしてそんなに優しいの?」私は見上げ、わざと目に「怯え」の涙を浮かべたまま尋ねた。
譲司は私の潤んだ瞳を見つめ、何かを言いたそうに唇を動かしたが、言葉はそこで途切れた。数秒ためらった後、ようやく苦しげに口を開く。「なぜなら……君は、俺の彼女だからだ」
彼女? 心の中で鼻で笑った。本当にあなたの彼女なら、昨夜あんなに驚くはずがないでしょう?
「キッチンで昼飯の準備をしてくる」譲司は慌てて逃げるように立ち去った。その狼狽ぶりは、私にさらなる確信を与えた――この男は私に気がある。でも、私たちは決して恋人同士なんかじゃない。
午後二時、私は水を飲みに行くふりをしてキッチンへ向かい、ついでにこの「家」に慣れるために歩き回ることにした。
譲司の書斎を通りかかると、中から声が聞こえてくる。
「隼人、本当にこれでいいのか?」譲司の声には、明らかな不安が滲んでいた。
「いいも悪いもあるか?」隼人は苛立ったように言った。「あいつは今や阿呆同然で、何も覚えていない。これは俺たち全員にとって好都合なんだ」
その言葉を聞いて、私の心は完全に冷え切った。
「だが隼人、記憶喪失の人間を騙すなんて……」譲司の声にはためらいがあった。
「騙す?」隼人は冷たく笑った。「譲司、正直に言うと、俺はもうとっくに彼女にうんざりしてたんだ。暴力的なボクシング女なんて、俺の周りの人間関係には合わない――あいつがいると毎回恥をかく」
私の手は固く拳を握りしめていた。暴力女? 下品? 隼人、これが私たちの三年間に対するあなたの評価なの?
「隼人、麗華のことをそんな風に言うな」譲司の口調が真剣になった。「彼女は素晴らしい女性だ」
「素晴らしい?」隼人は嘲笑した。「譲司、お前は彼女と暮らしたことがないからな。いつも拳を振り回し、声はでかいし、優しさってもんが全く分かってない。純子みたいな女こそ、成功した男として相応しい女性だ」
純子!? 心臓が跳ねた。
「あいつが『回復』したら、俺が少しずつお嬢様らしい振る舞いを仕込んでやる。もしそれができないなら……」隼人は言葉を切った。「その時は別の手を考えないとな。お前が数日面倒を見てくれ――俺は他のことに集中できる」
仕込む? 別の手?
歯を食いしばり、今にも飛び込んで隼人を殴りつけたい衝動を必死に抑えた。だが、今はその時ではないと理性が告げている。
私は静かにリビングへ戻った。顔にはまだ無垢な表情を浮かべているが、心の中ではすでに復讐の炎が燃え上がっていた。
松永隼人、私が簡単にいじめられる女だとでも思った?
その夜、譲司は夜食を用意してくれた。シンプルなハムサンドと温かいミルクだ。
「どうだ、美味いか?」譲司は慎重に尋ねた。
一口食べて、私は嬉しそうな表情を作る。「すごく美味しい! 譲司さん、本当に世話焼きなのね」
「以前の君は……こんなじゃなかった」譲司は思わず口にした。
「前の私はどんなだったの?」私は好奇心を装って尋ねた。
「もっと自立していて、食欲も今よりずっと旺盛だった」譲司は言わずにはいられなかったようだ。
胸が締め付けられる。そんなに細かく見ていたの?
私は心配そうな表情を作ってみせる。「このままだと栄養失調になっちゃうかしら?」
「いや、俺がしっかり面倒を見る」譲司の声は力強かった。
私は彼を見上げる。「譲司さん、私、すごく混乱してる……どうしてあなたの記憶だけ、全くないのかしら?」
譲司の手がこわばり、カップを落としそうになった。
「医者も言っていたが、記憶喪失は普通のことだ。記憶は少しずつ戻ってくる」彼は慎重に答えた。
「でも不思議なの……」私はさらに戸惑った表情を作ってみせる。「あなたのことを見ていると、心が温かくなって、すごく安心する。なのに、二人で一緒にいた光景がどうしても思い出せないの。私たちはどうやって出会ったの? いつから付き合い始めたの?」
譲司は長い間黙り込んでいた。その目に苦痛がよぎるのが見えた。
「覚えていないのは……当然だ」彼の声は少し掠れていた。
「じゃあ、教えてくれる?」私は無邪気に瞬きをした。「初めてのデートとか? 初めて『愛してる』って言い合ったのはいつ? 私たちの物語が知りたいの」
譲司は完全に凍り付いた。口を開いたが、言葉が出てこない。
案の定、「私たちの物語」なんて、存在しないのだ。
