第2章
桃子の白々しい嫌味が空気に溶け込む頃には、私はもう彼女に一瞥すらくれていなかった。
視線は、彼女の背後に佇む男一点に釘付けになっていたからだ。
西野綾人。M市を支配するマフィアのボス。そして前の人生で、底知れぬ冷酷さをもって姉を骨になるまで追い詰めた元凶。
彼はそこに立っていた。
漆黒の瞳は氷のように冷たく、一切の感情を映さず、じっと私を見つめている。
私は自分の姿に、ちらりと目を落とした。
破れた肩口、くっきりと残る手形の赤い痕、乱れた長い髪、口元についた血。全身に、むせ返るような血と鉄の匂いがこびりついている。
私は、ゴミでも振り払うみたいに怨嗟に顔を歪める綾美を突き放すと、背筋を伸ばし、静まり返ったホールの真ん中を真っ直ぐに歩いた。
綾人の目の前で、ぴたりと足を止める。
一切の逃げ道を捨て、この男の暗い瞳を正面から受け止めて――婚姻書類を、その広い胸板へ叩きつけた。
「初めまして。七宮優香。あなたの妻よ」
綾人の瞳がわずかに細くなる。言葉を発する前に、さっき叩き落とした綾美が、床から這い起きてきた。
「お兄ちゃん! 見てよ、この有様! 七宮家は、こんな狂犬を寄越したのよ! 今すぐ追い出して!」
「――狂犬?」
私はゆっくりと振り返ると、綾美へと歩み寄る。
周囲の護衛たちが慌てて銃に手を伸ばすより早く、私は彼女の顎をがしっと掴み、つま先立ちさせるように持ち上げた。
「口、慎みなさい。私は七宮優香。今日から、あんたの義姉よ」
そのまま彼女を床へ叩きつけ、踵を返して綾人をねめ上げる。
「着替えが必要だわ」
このマフィアのボスの黒い瞳を正面から射抜き、私は淡々と言い放つ。
「案内してくれない?」
周囲から、一斉に息を呑む音が上がった。この屋敷で綾人に対して、こんな命令口調で話す人間など、一人もいないのだ。
綾人は胸元の書類に一瞬だけ視線を落とし、それから再び私を見る。
皆が、彼が無情に銃を抜く――そんな展開を予想した、その瞬間。
「綾美。黙ってろ」
「二度と余計な真似はするな」
低い声音が、静かにしかし明確にホールに落ちた。
綾美の目が、信じられないと言わんばかりに見開かれる。
隣で見ていた桃子は一瞬だけ顔を引きつらせるが、すぐに、いかにも控えめな微笑みを作ると、柔らかい声で口を挟んだ。
「優香さん。綾人は両家の顔を立てるために、あなたを受け入れているだけよ。ここは西野家の屋敷。いつまでも、そんな乱暴で野蛮な振る舞いは通用しないわ」
私はあからさまに鼻で笑う。
「私は、いいカモじゃない。手を出すなら――」
そこで言葉を切り、冷たく言い捨てる。
「自分で覚悟を決めてからにしなさい」
これ以上、無駄口を叩く気も失せていた。私は踵を返し、二階へ続く階段に向かう。
すると背後から、規則正しい革靴の音がついてくる。
綾人が、一言も発さず、後ろをついてきていた。
豪奢な赤い絨毯を踏みしめながら、私は胸の内で冷笑する。
――これでは、前の人生で穏やかな姉がどうして潰されたのか、よくわかる。
頭の足りない横暴な妹と、腹の底まで真っ黒な白い花。
そこへ、弥佳のささやかなプライドが放り込まれたところで、太刀打ちできるはずがなかったのだ。
でも、私は弥佳じゃない。
泣いて耐えて、飲み込んで、黙って死ぬような真似は――絶対にしない。
一週間後。予定通り、結婚式は盛大に執り行われた。
母は、私が強引に姉の代わりを買って出たことに激怒し、「勘当よ」と叫んで式への出席を拒否してきた。
それでも、マフィアの一大ファミリーが主催する披露宴は、絢爛という言葉すら追いつかないほどの豪華さだった。
祝杯が何度も打ち鳴らされ、場が温まった頃。
桃子が、すっと立ち上がった。
ウェディングドレスと見紛うほど純白のロングドレス。潤んだ瞳。
彼女は、今にも壊れそうな声で口を開いた。
「綾人の結婚を、心から嬉しいと思うわ……」
震える声に、抑え込まれた悲哀を滲ませる。
「だけど、優香さんがウェディングドレスを着て彼の隣に立つのを見ていると……どうしても、思い出してしまうの。あの夜のこと……二人きりで過ごした時間……『一生、君を守る』って言ってくれた、あの誓いを……」
顔を半分覆い隠した肩が、大きく震える。
まるで、突然愛を奪われた、哀れな被害者のような演技。
会場が、一瞬で静まり返った。
視線が、一斉に私へ向けられる。
――前の人生でも、まったく同じだった。
桃子は、この完璧な「被害者の衣」を武器に、姉への誹謗と同情を雪崩のように起こした。道徳と噂話で、姉の居場所を少しずつ奪っていったのだ。
だが、私の前で、その茶番を繰り返すつもりなら――それはただの自殺行為だ。
私は横に立つ無表情な綾人の腕を、ぐいと力いっぱい掴んだ。
その勢いのまま、まっすぐ桃子へ歩み寄る。
あまりの迫力に、桃子は青ざめて半歩退いた。
「安っぽい涙は、しまいなさい。桃子!」
視線は刃のように鋭く、声は礼拝堂の隅々まで響き渡り、すべてを切り裂くような凄みを帯びていた。
「二つのファミリーの婚姻は、白黒はっきりと契約に書かれている。どう? まさか自分の姓が七宮だとでも言うつもり? それとも、ウェディングドレスの真似事をして、涙を数滴こぼせば、この婚約を破棄できると本気で思ってる?」
桃子は雷に打たれたように硬直した。唇がわなわなと震え、言葉ひとつ紡げない。
私は間髪入れず、踵を返して綾人の襟を掴み、自分のほうへと乱暴に引き寄せる。
踵を少し浮かせ――会場の全員が見ている前で、彼の唇を強引に奪った。
綾人の体がびくりと震え、全身の筋肉が瞬間的に強張る。
それでも、彼は私を押し返さなかった。
一つのキスが終わる頃。
私は挑発するように彼の胸に軽く凭れかかりながら、視界の端で彼の耳朶をとらえた。
氷の刃のような冷血ボスの横顔。その耳たぶだけが、妙に赤く染まっていた。
桃子の瞳に、狂気じみた嫉妬が閃く。しかし彼女は素早く態度を切り替え、奥の手を繰り出した。
慌てて涙を拭い、今度は瀕死の小鹿のように弱々しく胸元を押さえながら綾人を見上げる。
「ごめんなさい……ただ、急に胸が締め付けられて……今日みたいな日は、どうしても亡くなった両親を思い出してしまって……お墓に、行きたくなってしまったの」
場内にざわめきが広がる。
桃子はさらに咽び泣く。
「大丈夫よ、優香さんは、きっとあなたが私を慰めるのを快く思わないでしょうから。私一人で行くわ……」
視線が今度は綾人に集中する。
彼は三秒だけ沈黙し、それから低く呟いた。
「……一緒に行こう」
胸の奥で、何かがぶちっと音を立てて切れた。
私は彼のネクタイを掴み、全力を込めて引き寄せ、そのまま後ろへと力任せに押し倒す。
裏社会全体を震え上がらせるマフィアのボスを、盛大に大理石の柱へ叩きつけてやった。
