第3章

 会場は一瞬にして水を打ったような静寂に包まれた。

 私は彼の襟元を乱暴に掴み、強引に頭を引き下ろさせ、その深くて切れ長な冷たい瞳を私の視線と真正面からぶつけさせる。

「西野綾人。あんたの同情心は、そんなに安売りなの?」

 冷笑を浮かべ、彼の驚愕の色を真正面から射抜く。

「場の空気も読めないで、まだあの女とベタつくつもり? 今すぐ彼女のところへ行きたいなら、どうぞご自由に。その瞬間、この結婚は――破棄よ」

 私は彼のネクタイから勢いよく手を離す。

 前の人生でも、まったく同じ日に、同じ三文芝居が繰り広げられた。優しくて気の弱い姉の弥佳は、涙をこらえて黙って耐え、新婚の夫が「か弱き女」の元へ歩み寄っていくのを、ただ見送るしかなかった。

 でも、私は弥佳じゃない。

 こんな吐き気のする茶番のために、一滴の涙だって流すつもりはない。

「優香! あなた、頭がどうかしてる!」

 桃子の「健気な清純派」という仮面が、音を立てて崩れ落ちる。その顔は怒りでひどく歪んでいた。

「みんなの前で、犬みたいに綾人を怒鳴りつけるなんて! 彼の尊厳を踏みにじるだけじゃないわ、西野家全体を侮辱してるのよ!」

 彼女はヒステリックに私の鼻先を指差す。

「あんたみたいな野蛮な女、西野家の女主人の座になんて、ふさわしいわけないじゃない!」

 すかさず、そばにいた綾美も目を光らせて口を挟もうとする。

「そうよ! この女、いったい何様――」

 私は鋭く顔を向け、刃のような視線を突き刺した。

 その凄みに綾美はビクッと肩を震わせ、飲みかけた悪口を喉の奥へ押し込むと、慌てて二歩、三歩と後ずさる。

 ざわめきが広がり、空気が桃子の作り出そうとしている「道徳的な被害者」へと傾きかけた、その瞬間。

 私は一歩も引かず、桃子へと詰め寄る。

「私が相応しくない? じゃあ、あんたはどうなの?」

 心底バカにした笑みを口元に刻む。

「桃子。具合が悪いなら病院に行きなさい。綾人は私の夫よ。あんたの、心療内科じゃない」

「全員、よく聞きなさい!」

 私は声を張り上げ、冷え切った視線で会場をねめ回す。

「今日、私の結婚式で勝手な茶番を演じて、私に盾突くつもりなら――相手が誰だろうと、私、優香は絶対に許さない!」

 空気がパチパチと火花を散らして張り詰め、まさに爆発しようとした、そのとき――

 温かく、骨ばった大きな手が、突然私の腰をがしっと掴んだ。

 いつの間にか、綾人がすぐそばまで寄ってきていた。

「彼女は、間違っていない」

 低く落とされた声が、見えない鉄槌のように、すべてのざわめきを瞬時に黙らせる。

 追い詰められて蒼ざめていた桃子は、はっと顔を上げた。

 まるで救いの糸にすがるように、計算し尽くされた涙を瞳にたたえ、楚々とした様子で彼を見つめる。

「綾人……ね? やっぱり、私を守ってくれるのはあなただけ。私、ただ亡くなった両親に会いたくなっただけなのに、彼女、あんなにひどい言い方をして……」

 だが、彼女の甘ったるい嗚咽が喉から絞り出されるより早く、綾人はぐっと腕の力を込め、私をその広くて硬い胸板へ隙間なく引き寄せた。

「桃子。勘違いするな」

 綾人は、目の前の女に一瞥すらくれない。漆黒の熱を帯びた瞳はただひたすらに私の顔だけを縛りつけ、少しタコのある親指が、あやすように私の腰元を撫でる。

「俺は言ったんだ――俺の妻は、間違っていないと。俺の妻には、言いたいことを好きなだけ口にする権利がある」

 桃子の顔に浮かんでいた安堵が、一瞬で死に絶える。

 彼女は口元を押さえて絶望的な悲鳴を漏らし、そのまま白いドレスの裾を掴んで、這うように会場から逃げ出していった。

 綾人はその背中を見送りもしない。

 ウェディングドレス越しに伝わる微かに熱い掌。そして、低く掠れた声が私の耳朶を撫でる。

「式は、このまま進行させる。今夜――お前には、きちんと話をする」

 深夜。西野邸の主寝室。

 重たくて煩わしいウェディングドレスを乱暴に蹴飛ばし、私は身体のラインが出るシルクのキャミソール一枚で腕を組み、ドアを開けて入ってきた綾人を冷ややかに睨みつけていた。

「彼女が涙を流しさえすれば、どんなときでも駆けつけるつもり?」

 私は単刀直入に切り出す。

「そうだって言うなら、明日の朝いちで離婚よ。あんたたちの茶番に、これ以上つき合う気はないから」

 私は立ち上がり、ドアノブに向かって歩き出す。

「行くな」

 綾人の手は稲妻のように速かった。鉄の万力のような大きな手が私の手首を捕らえ、一気に自分のほうへと引き寄せる。

 彼は伏し目がちに私を見下ろし、低く押し殺した声で言った。

「優香。俺は、感情の扱いがうまくない。桃子の涙には、反射的に安撫の手を伸ばすことに慣れきっていた。だが、今日は……」

 喉仏が激しく上下し、黒い瞳の奥で暗い光がうねる。

「お前が俺を柱へ叩きつけたあの瞬間、はっきりと目が覚めた――お前こそが、俺の妻だ。ほかの女のために、みんなの前でお前を笑いものにするような真似は、絶対にしてはいけなかった」

「安っぽい口説き文句で誤魔化すのはやめなさい」

 私は乱暴に手を引き抜き、攻撃的な視線を突きつける。

「私の性格は最悪よ! 何かあっても、泣いて同情を買うなんて芸当はできない。直接ドアを蹴破って、テーブルをひっくり返すだけ!」

「それでいい。それがお前だろう」

 綾人が突然距離を詰め、私をベッドの縁へと追い詰める。

 その視線が、私の瞳から唇へと、焼けつくような熱を伴って滑り落ちていく。室内の空気が、一瞬にして甘く粘りつく。

 彼が身を屈め、その薄い唇が私の唇を塞ごうとした、まさにその刹那――

 雷鳴のような激しいノックの音が、ドアを叩き割る勢いで響き渡った。

「ボス! 大変です! 桃子嬢が遺書を残して、死ぬって言ってます! 両親のところへ行くって!」

 ドアの向こうから、護衛の焦燥しきった叫び声が飛んでくる。

 綾人の身体が、一瞬にして鉄のように硬直した。

 一秒前まで絡み合っていた熱い吐息が、一気に底冷えして遠ざかる。

 私はその場に立ち尽くし、彼が無言のままシャツの乱れを整え、振り返って大股でドアへと向かうのを、冷ややかな目で見つめていた。

「西野綾人」

 私の声は、氷を飲み込んだように冷え切っていた。

 彼の背中がぴたりと止まる。だが、その手はすでにドアノブをがっちりと掴んでいた。

「彼女が死ぬと言うなら、見過ごすわけにはいかない」

「どうしてほかの人間に行かせないの? あんたの手下にいる何百人って人間は、全員死体なの!? どうして、あんた自身が行かなきゃならないわけ!?」

「忘れないで、綾人! 今日は――私たちの新婚初夜よ!」

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