第4章

 綾人はドアに背を預けたまま、鉄のように硬直していた。

 重い沈黙の後、骨ばったその手がドアノブを死に物狂いで握りしめる。手の甲には、びきりと青筋が浮き上がっていた。

「桃子の両親は、俺の盾になって死んだ」

 低く、掠れた声が落ちる。

「あの抗争で、二人は――跡形もなくなった」

 ゆっくりと振り返った彼の漆黒の瞳は、底知れぬ闇を湛えている。

「遺書が残されていた。優香――たとえどんな時であろうと、俺は恩人の娘の命を見捨てることなどできない」

 私はその場に立ち尽くしたまま、掌に爪が食い込むほど拳を握りしめた。

 忌々しい。その理由はあまりにも重く、有無を言わさずのしかかってきて、私には一言の反論すら許されなかった。

「……わかったわ」

 私は眼差しに鋭い決意を滲ませる。

「どうしても行かなきゃいけないって言うなら、私も一緒に行く」

「今日という新婚の夜に、私を一人置き去りにするなんて真似――絶対にさせないから」

 ソファに放り出されていた黒のトレンチコートを引っ掴んで肩に羽織ると、私は彼を押しのけて、大股でドアへと向かった。

「結婚初日から『恩人の娘を死に追いやった女』なんて濡れ衣を着せられるのは、ごめんだもの」

 言い終えるより早く。

 がっしりとした大きな手が、私の手首を力強く捕らえた。

 彼は私の手を引いたまま、乱暴にドアを開けて廊下へと踏み出す。

 そして、大勢の部下たちが注視するなか、七宮家から来たこの生意気な花嫁を、堂々と自分の隣に立たせた。

 ホールに出ると、すでに蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。

「ボス! 桃子嬢の部屋で見つかりました」

 顔を引きつらせた組員が、震える声で皺だらけの紙切れを両手で差し出す。

 綾人がそれを片手でひったくるように受け取り、一瞥した瞬間――その瞳が氷の刃のように細められた。

 紙には、可愛らしい文字でこう綴られていた。

『綾人。わたし、本当にひとりぼっちで寂しくて、パパとママのところに行きたいの。でも、自殺ってきっとすごく痛いよね? もしかしたら……月読橋から飛び降りるのが、一番苦しまない死に方なのかな』

「ただちに月読橋を封鎖しろ」

 短く、一切の容赦がない命令が飛ぶ。

 私は、そのくしゃくしゃになった紙切れを冷めた目で見つめた。

 本気で死のうとしている人間が、わざわざこんな『わかりやすいメモ』とともに、行き先までご丁寧に書き残すわけがないでしょうに。

 黒い幽霊のような車列が夜を切り裂き、月読橋のたもとで悲鳴のようなブレーキ音を響かせて急停止する。

 ドアを開け放った瞬間、橋の向こう側で、これ見よがしに風に煽られている真っ白なワンピースが視界の端を掠めた。

「あんたは部下を連れて右岸を。私は左」

 綾人に冷たく言い捨て、私は彼の返答も待たずに踵を返し、橋の上へと駆け上がった。

 夜風が唸りを上げる橋の上に、人影はない。

 ただ一人、吹きすさぶ風の中に立つ桃子の華奢な背中は、今にも折れそうな羽のようだった。

 足音に気づいた彼女は、ゆっくりと振り返る。

 そして、その口元に儚くも凄絶な微笑みを浮かべた――言うまでもなく、それは綾人に向けた作り笑いだ。

 だが、暗がりから歩み出たのが私だと気づいた瞬間。

 その可憐な仮面はこわばり、口元の笑みが音を立てて砕け散った。

「……なんで、あなたなの?」

 震えていたはずの声から弱々しさが消え失せ、代わりにむき出しの失望と棘が突き出た。

「綾人は!? あなたのために、私の命なんてどうでもよくなったっていうの!?」

 私は腕を組み、高いヒールの音をわざと響かせながら、一歩、また一歩と距離を詰める。

 そして、見下すような視線で彼女の頭のてっぺんから足の先までを舐め回した。

「茶番はもういいわ、桃子」

 私は半歩手前で立ち止まる。

「こんなに風が強いのに、髪の一本も乱れていないし、スカートの裾には埃ひとつついていない。本気で両親の元へ急ぐ人間が、香水の広告みたいに完璧な姿で立っていると思う?」

「あなたに何がわかるのよ! 私は本当に、生きていくのが――」

「黙りなさい」

 私は鋭い声でその言葉を切り捨て、刃のような視線で彼女の被った皮を一枚ずつ剥ぎ取っていく。

「その手の芝居は、もう賞味期限切れよ。欲しいものが手に入らない、自分の思い通りに動かない人間がいる――そうなると決まって自分の命を人質に取り、全員をひざまずかせて妥協を迫るのね」

 じりじりと追い詰め、彼女の背中を冷たい欄干へと押しつける。

「でも、一つだけ勘違いしてるわ。そのやり方が通じるのは、『後ろめたさ』を持った相手だけ」

「私には一切通用しない。今ここから飛び降りようが――私は眉ひとつ動かさないわ」

 その言葉は、深く淀んだ水底で炸裂した爆弾だった。

 桃子の顔に張り付いていた最後の『柔弱な』仮面が、粉々に砕け散る。

 彼女は私をねめつけ、その瞳から涙の膜が完全に消え去った。あとに残ったのは、冷酷な悪意と、狂気を孕んだ暴走の光だけ。

「七宮優香、あなた何様のつもり?」

 彼女は背筋を伸ばし、牙を剥くように叫んだ。

「私と綾人は両想いなのよ! 私の家族はあの人のために死んだ! この屋敷で、彼の心を溶かせるのは私だけなの!」

 奥歯をギリッと噛みしめ、怨嗟の声を絞り出す。

「あなたが突然割り込んでこなければ、私は西野家の正妻になっていたはずなのよ!」

「本当に?」

 私は心底バカにしたように鼻で笑う。

「もし綾人が本気であなたを娶るつもりだったなら、この十数年の間に、片膝をついてプロポーズする機会なんて一万回はあったわ。彼があなたを愛しているなら、私が入り込む余地なんて、どこを探してもなかったはずよ」

「寝言は寝て言いなさい!」

 桃子が金切り声を上げる。

「あなたなんて、落ちぶれた三流家の駒にすぎないじゃない! 実権も地位もないくせに、紙切れ一枚の婚約でボスの妻になれるとでも思ってるの? 笑わせないで!」

「確かに、契約だけじゃ人の心は変えられない」

 私はぐっと身体を前に傾け、一語一語、彼女の心臓を抉るように告げた。

「――でもそれは、あなたも同じよ。あなたは『高嶺の花』なんかじゃない。綾人にとって、永遠に返しきれない借りの象徴でしかない」

「生かしてやっているのは、ただの施し。恩赦にすぎないのよ」

 桃子は激しく全身を戦慄させ、屈辱のあまり顔をぐちゃぐちゃに歪ませた。

 もはやこれ以上見る価値もない。

 私は鼻を鳴らし、踵を返した。

 ――その瞬間。

 背後から、どす黒く濁った殺意が襲いかかってきた。

 氷のように冷たい両手が、鉄の万力のような力で私の腕を掴む。爪が布地を裂き、容赦なく肉へと食い込んだ。

 背中越しに桃子が張り付き、息が詰まるほどの悪意に満ちた、掠れた声を耳元に吹き込む。

「ねえ、優香……もし、今ここで私たち二人が同時に落ちたら、綾人はどっちを先に救うと思う?」

 言い終わるや否や。

 彼女は勢いよく身体を反転させ、私の胸ぐらを死に物狂いで掴み上げた。

 そして、決死の狂気を孕んだまま、私ごと、欄干の途切れた橋の向こうの深淵へと身を投げ出した。

 耳元で風が鋭く裂ける。

 眼下で口を開けて待っていたのは、墨のように黒く、刺すように冷たい濁流だった。

 水飛沫が上がる直前、桃子のヒステリックな絶叫が響き渡った。

「助けてえええ――!! 綾人、助けてっ――!!」

「優香が狂ったのよ――!! 私を突き落としたのぉっ――!!!!」

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