第1章
医師は私の傷口を覗き込み、険しい表情で眉根を寄せた。
「状態は最悪です」切迫した声が鼓膜を打つ。
「肩の血管損傷が深刻で、すでに血栓が形成され始めています。あの特殊な抗凝固剤を使わなければ、この腕は切断することになるかもしれない。旦那様、友梨奈様の分をこちらに回してもよろしいでしょうか?」
孝平はベッドの足元に立ち、蒼白な私の顔を冷徹な瞳で見下ろしている。
「必要ない」彼は短く切り捨てた。
「里奈は回復が早い。昔からそうだ。彼女にその薬は要らない」
医師は言葉を詰まらせた。
「しかし、これは奥様が今後、腕を動かせるかどうかにかかわる――」
「いい加減にしろ」孝平が遮る。
「その薬は佳弥のために残しておく。術後に必要になるからな。あれがいかに希少で、二度と手に入らない代物かは知っているだろう」
「お前が今気にするべきは心臓移植の術後生存率と拒絶反応だ。たかが片腕一本に精力を浪費している場合じゃない」
その時、秘書が入室し、彼にスマートフォンを差し出した。
漏れ聞こえてきたのは、あの実行犯の声――歌劇場で孝平に『射殺』されたはずの男の声だった。
「ご配慮に感謝しやす」しゃがれた声が、受話口の向こうで下卑た笑いを漏らす。
「現場の掃除も完璧、照明を落とすタイミングも絶妙でしたな」
「約束の金と、新しい身分証は――」
孝平は背を向け、バルコニーへと歩き出した。声を潜める。
「約束したものは必ず渡す。余計な口を叩くな。これ以上、騒ぎを大きくしたくはない」
医師と看護師は逃げるように処置を終え、慌ただしく病室を去っていった。
扉が閉ざされた瞬間、張り詰めていた糸が切れ、私は崩れ落ちた。
熱い涙が頬を伝い、血の滲む肩の包帯へと滴り落ちる。だが、肉を裂かれるような痛みなど、空っぽにされた心の深淵に比べれば、取るに足らないものだった。
七年間の結婚生活。それはすべて、周到に仕組まれた茶番劇だったのだ。孝平はリリを犠牲にしただけではない。あの子自身のために建てた歌劇場に刺客を送り込んだのだ――彼が「君と彼女のためだけの場所だ」と囁いたあの場所は、あの子の処刑場へと変わり果てた。
愛人の娘を救うための心臓。そのために、私のリリは生贄に捧げられたのだ。
今朝のことだ。リリは私の手を握りしめ、あどけない顔で尋ねてきた。
「ママ、このアリア、ずっと練習してたの。パパ、今夜は褒めてくれるかな?」
あの子の瞳は、あんなにも輝いていたのに。
森田孝平、貴様ごときに父親を名乗る資格などない!
私の嗚咽を耳にしたのか、孝平がバルコニーから戻ってきた。その顔には、実によく出来た「心配」の仮面が張り付いている。
彼はベッドサイドに腰を下ろすと、私の涙を指先で優しく拭った。その指は、死体のように冷たい。
「泣くな」彼は掠れた声で言った。
「痛むか? もう少しの辛抱だ、すぐに治まる」
「お前たちを守ってやれなくて、すまなかった」彼は伏し目がちに呟く。
「リリは逝ってしまった。お前もこんな怪我を……これからは、二度とお前にこんな思いはさせない」
ふざけるな。この地獄をもたらしたのは、他ならぬお前ではないか。
私は残された力を振り絞り、左手で彼の胸を激しく叩いた。「リリ……私のリリはどこ?」喉から絞り出した声は、無残にひび割れていた。
彼は避けることもせず、私が力の限り暴れるのをなすがままにさせていた。
やがて私が力尽きると、彼は低く囁いた。
「やめるんだ、里奈。リリを安らかに眠らせてやるために、すでに手配は済ませた。……火葬は終わっている」
娘の最期の顔を見る権利さえ、この男は私から奪ったのだ。
激痛と激昂で全身が震え、脂汗が病衣を濡らしていく。
私は胸の引きつるような痛みに耐え、奥歯を噛み砕くほどの力で食いしばって言った。
「あの歌劇場へ連れて行って。あの子はきっとまだあそこにいるわ。あそこへ迎えに行かなくちゃ」
孝平は私の名を呼んだ。まるで、錯乱した患者をあやすような口調で。
「里奈、あの歌劇場は……もう僕たちのものじゃない」
「維持費も莫大だ」彼は淡々と言い放つ。
「あそこはもう、存在する意義を失った。だから寄付したよ、音楽教育の慈善事業にな。じきに、悲しい思い出ではなく、子供たちの歌声で満たされるようになるだろう」
彼はこの狂気を、さも道理の通った美談であるかのように語ってみせた。
「それがリリの望みでもあるはずだ。あの子は優しいから、きっと僕を責めたりはしない」
