第2章
リリがオペラに夢中になり始めたばかりの頃、孝平はあの子の誕生日に、港区の臨海エリアにある広大な屋敷を丸ごと買い上げた。そこを彼女の名を冠した『リリの歌劇苑』に改装すると、彼は言った。
本館はリリ専用のレッスン場として小型の歌劇場に改築し、欧州から声楽の名教師まで招いた。一方で別棟は、『児童芸術・リハビリテーションセンター』として整備するという。
その瞬間、私は彼の深い愛情に胸を打たれ、心が溶け出すほどに柔らかくなったのを感じた——ああ、見て。彼はついに、私たち母娘を心から大切に想ってくれるようになったのだと。
その夜、リリは興奮のあまり眠れず、私の手を握りしめて何度も何度も尋ねてきた。
「ママ、パパは本当に私のために歌劇場を建ててくれたの? 本当に?」
私はあの子を抱きしめ、もちろんだよと答えた。パパはリリのことを誰よりも愛しているんだから、と。
だが、ずっと後になって偶然知ってしまった。友梨奈が、その敷地内にある別の改装された屋敷に住んでいたことを。あの充実した付帯施設も、名ばかりの『児童センター』も、主にあちらの母娘が日々利用するための利便を図ったものだったのだと。
当時の私には、想像すらつかなかった。孝平がこれほどまでに残酷になれる人間だとは。
一つの歌劇院を、表向きは娘の夢として飾り立てながら、その裏で情婦の子のための『臓器保管庫』として扱っていたなんて。
私が信じていた父性愛も、深夜に一人感動して涙したあの『心遣い』も、すべては別のより高価な贈り物を隠すための、ただの包装紙に過ぎなかったのだ。
病室で、孝平は私の顔色が蒼白なことに気づくと、すぐに医師を呼びつけた。
医師が私の右肩の傷口を圧迫した瞬間、激痛に息が詰まる。孝平は眉を寄せ、咎めるように言った。
「もっと丁寧に扱ってくれ」
彼は自らアームスリングの位置を調整し、看護師に鎮痛処置とケアを徹底するよう言いつける。もし以前なら、こうした細やかな気遣いに涙していただろう。けれど今、彼の真剣な横顔を見つめる私の心にあるのは、冷たい違和感だけだった。
その後、孝平は何かに呼ばれて席を外した。
私は置き忘れた彼のスマホを手に取り、試しに私の誕生日を入力してみる——画面にはエラーが表示された。
続けて友梨奈の誕生日を試す。ロックは、あっけなく解除された。
画面から放たれる青白い光が私の顔を照らす。それはまるで、音のない平手打ちを受けたかのような衝撃だった。
トーク画面のトップに固定された相手。その登録名は『愛娘リリ』となっていた。
最新の写真には、友梨奈の娘が術後に目を覚まし、病室のベッドの上で弱々しくピースサインをする姿が写っている。
孝平からの返信。
『僕たちの宝物が、ついに正常な心臓を手に入れたんだ。あの子には、それだけの価値がある』
私の瞳から、涙が零れ落ちた。
リリを産んだあの日、私は本気でそう思っていた。家族の猛反対を押し切り、森田家と私たち浜山家が宿敵同士であることを承知の上で彼と一緒になったことは、正しかったのだと。自分の一生を賭けた決断が、ついに報われたのだと信じていた。
今となっては、滑稽としか言いようがない。
私は強張った指先で、履歴を過去へと遡り始めた。指の動きは次第に速くなる。何かを確認したいという焦燥と、これ以上目にするのが恐ろしいという恐怖が入り混じっていた。
数年前、彼は友梨奈のためにプライベートアイランドとリゾート別荘を購入していた。それ以降、毎年の誕生日には高級車、宝石、専属医療チームといった高価な贈り物ばかり。トーク履歴の中で詳細に語られていたのは、友梨奈の娘の治療計画、教育方針、そして輝かしい未来の舞台についてだった。
じゃあ、私とリリは? 私たちが誕生日に望んだのは、ただ彼と一緒に過ごす一日だけだったのに。
「忙しすぎて無理だ。プレゼントは今度埋め合わせするよ」
彼はいつも、そう繰り返すだけだった。
スマホを伏せると、画面の光が消え、闇が戻る。
私の頭に残ったのは、ただ一つの決意だけ。リリを連れて、一族のもとへ帰ろう——孝平のために私が背を向けた、あの実家へ。
翌朝、孝平は薄味の野菜粥を運んできた。
「医者の勧めに合わせて作らせたんだ」
彼は甘い声でそう言うと、一口分をスプーンですくい、ふーふーと息を吹きかける。
「血行の回復にいいらしいから」
昨日のことを思い出す。医師は私の腕を救うために、ある希少な抗凝固剤の使用を提案していた。
けれど孝平は、その薬の在庫を『友梨奈のために残しておくべきだ。あっちの娘の術後に必要になる』と言って却下したのだ。
私は込み上げる吐き気を必死に抑え込み、粥を数口だけ飲み下した。頭を冷やせ。もう二度と、こんなご都合主義の『優しさ』になんて惑わされない。
スプーンを置くと、私は静かに問いかけた。
「リリの葬儀は、どこで執り行うの?」
私の傷口から再び血が滲んでいるのを見て、孝平は困り果てたような、それでいて優しい口調で言った。
「無理して参列することはないよ。僕がちゃんと手配しておくから。式は簡素にして、身内だけで済ませたらすぐに墓地へ送るつもりだ」
「行くわ」
私の声は微かだったが、その一言一句を明確に噛み締めて告げた。
「今の君の体じゃ——」
彼は私の頬に触れようと手を伸ばしたが、私はそれを避けた。
「黙って!」
私は叫んだ。声が怒りで震えている。
「あの子は、私の娘よ!」
