第3章

由梨の視点

「俊、てめぇ気でも狂ったか――」

 弘哲が止めに入ろうとする。

 俊の右腕である赤石健二が、その前に立ちはだかった。彼は能面のように無表情だ。

「平塚さん、これ以上事態を悪化させないでください」

 さらに多くのボディーガードがなだれ込み、弘哲を完全に取り囲む。

 俊は私の首を掴み、病室のベッドから引きずり下ろした。呼吸ができず、必死に抵抗する私の爪が、彼の腕に血の跡を刻む。

「連れて帰るぞ」

 彼が手を離すと、私は床に崩れ落ちて激しく咳き込んだ。二人のボディーガードが私を抱え上げ、まるで死んだ犬のように外へと引きずっていく。

 背後で弘哲の怒号が響いた。

「武藤! 後悔することになるぞ!」

 俊は冷たく笑うだけだった。

「てめぇの心配だけしてろ」

          ◇

 武藤邸に到着すると、リビングでは正人と昭子が待ち構えていた。

「この人でなしのクズが!」

 昭子が駆け寄り、私の頬を平手打ちした。

「自分が何をしたか分かってるの!?」

 熱を持った頬を押さえる間もなく、今度は正人が私の髪を掴み上げた。

「美弥が死ぬところだったんだぞ! お前のせいで!」

「何のことか……分からな……」

「まだ白を切る気か?」

 昭子の声が金切り声へと変わる。

「重度のアナフィラキシーショックだったと医者が言ったのよ! あの子がマンゴーアレルギーだって知らないわけがないでしょう? 美弥が言ったのよ、パーティーの前に食べたのは一つだけ――あんたが渡したケーキだけだって!」

 全身の血が、瞬時に凍りついた。

 マンゴー? 私は彼女に何も食べさせてなどいない!

「ケーキなんて渡してない! 本当よ!」

「まだ嘘をつくのか!」

 正人の蹴りが下腹部に突き刺さる。

「美弥が自分の命をネタに冗談を言うとでも? あの子は死にかけたんだ! あと一歩で!」

 激痛が走り、私は床にうずくまった。冷や汗が衣服を濡らす。

 私のお腹の子供が……。

「嫉妬してるんでしょ!」

 昭子が私を見下ろす。その目は嫌悪に満ちていた。

「美弥があんたより優秀だから、俊があの子を愛しているから! だから殺そうとしたのよ!」

「違う……」

 私は俊を見上げた。声が震える。

「俊……お願い、信じて……」

 彼はただ、冷ややかな視線で私を俯瞰しているだけだった。

「物置へぶち込め」

 その声は、死刑宣告のように響いた。

「美弥が目を覚ますまで、水も食料も与えるな」

「嫌!」

 心臓が早鐘を打つ。

「俊、お願い! 閉じ込めるのだけはやめて――私が暗闇を怖がってるの、知ってるでしょう!? 昔から知ってるはずよ!」

 私の閉所恐怖症は、ここにいる全員が知っている事実だ。

 幼い頃、両親の機嫌を損ねるたびに閉じ込められた地下室。光の一切ない空間で、恐怖が理性を食い荒らす。声が枯れるまで叫び続けたあの闇。

 それは、私の抱える最も深いトラウマだった。

「お願い……」

 私は彼のズボンの裾にすがりついた。

「本当に怖いの……お願いだから、それだけは……」

 俊は私の手を無慈悲に蹴り開けた。

「暗いのがどうした? お前は美弥を殺しかけたんだ」

「Boss、これは何かの誤解では――」

 傍らに控えていた赤石が、恐る恐る口を開いた。

 だが、言い終わる前に俊の蹴りが彼の胸板を襲った。赤石は吹き飛び、片膝をついて口元から血を流す。

「身分を弁えろ、赤石」

 俊の瞳は氷のようだった。

「お前は俺の部下だ。こいつの弁護士じゃない」

 赤石は頭を垂れて沈黙したが、その拳が固く握りしめられているのが見えた。

 二人のボディーガードが私を抱え上げ、地下室へと引きずっていく。

「嫌! 俊! 私は何もしてない! 本当に何もしてないの!」

 誰も耳を貸さない。

 物置の扉が開かれ、深淵のような闇が口を開けていた。

 中へ放り込まれ、重々しい音とともに扉が閉ざされる。

 世界は一瞬にして、絶対的な闇に包まれた。

 私はよろめきながら立ち上がり、壁を伝ってドアノブを探した。だが、そこには冷たく湿った壁があるだけで、何の手掛かりもない。

「ここから出して!」

 私は扉を叩き続けた。

「お願い! 出してよ!」

 返ってくるのは、虚しい反響音だけ。

 私はその場にへたり込み、膝を抱えた。闇が生き物のように私の理性を侵食していく。恐怖が毒蛇のように心臓に巻き付く。

 時間の感覚が消え失せた。数時間なのか、それとも丸一日なのか。

 飢えと渇きが私を苛むが、それ以上に恐ろしいのは、この闇そのものだった。

 三日目の深夜。私はすでに虚脱状態にあった。

 不意に、扉がわずかに開いた。

 微かな光が差し込む。私は目を細め、ようやく廊下に立つ人影を認識した――美弥と俊だ。

「俊、どうして由梨をこんなところに閉じ込めたりしたの?」

 美弥が泣いている。

「全部、私の不注意のせいなのに……」

「君のせいじゃない」

 俊の声は、胸が張り裂けそうなほど優しかった。

「あいつが君を騙したんだ」

 私は息を殺し、身じろぎもせずにその光景を見つめた。

 美弥がすすり泣く。

「でも、由梨がこんなことをしたのは、きっと私のせいよ……私が彼女の居場所を奪ったと思ってるのね……。でも俊、彼女は私のお姉ちゃんなのよ。私が彼女のものを奪うわけないじゃない……たとえそれが……私が一番欲しかったものだとしても……」

 彼女の声は次第に小さくなり、ある種の暗示を含んでいた。

 俊は溜息をつき、彼女を抱き寄せた。

「君は優しすぎる。あの時、あいつがあんな汚い手を使わなければ、俺たちはとっくに一緒になっていたんだ。今のあいつの境遇は、完全に自業自得だ」

 心が引き裂かれるようだった。

 五年前の記憶がフラッシュバックする――。

 ホテルの部屋で、薬を盛られて高熱にうなされる俊。救急車を呼ぼうとした私を、突然現れた美弥が部屋の中に突き飛ばし、外から鍵をかけたのだ。

『姉さん、俊のことよろしくね』彼女は笑って言った。『どうせ金も力もない隠し子だもの。私はもっといい男を探しに海外へ行くわ。あんたが代わりに嫁いでよ』

 翌日目覚めた俊は、私が薬を盛って既成事実を作ったのだと思い込んだ。

 だが、薬を盛ったのは美弥だった。

 彼女は当時の俊を見限り、金持ちを捕まえるために海外へ逃げたのだ。しかし、彼が兄弟たちとの抗争に勝ち、新たな後継者になるとは夢にも思わなかったのだろう。

 だから彼女は戻ってきた。嘘を携えて。

 美弥は俊の胸に寄りかかり、か細い声で囁く。

「俊……あなたの心に私がいるなら、いつ……私を妻にしてくれるの? このままじゃ誰のためにもならないわ。万が一、由梨がまた狂ったことをしでかしたら……」

 俊は少しの間、沈黙した。

「その件については考えがある」彼は言った。

「由梨は執着心が強い。今すぐ離婚を切り出せば、意地になってしがみつくだろう。あいつの方から……言い出させるように仕向けないと」

「でも――」

「美弥」

 俊が言葉を遮り、口調を厳しくする。

「あいつを発狂させて面倒事を起こされたくはないだろう? 腐っても君の姉だ。処理する時間をくれ」

 美弥は唇を噛んで黙り込んだ。

 その時、部下が慌ただしく駆け寄り、俊の耳元で何かを囁いた。

 俊が眉をひそめる。

「クソッ……俺が行って片付けるしかないか。君はもう休んでくれ」

 彼は大股で去っていき、足音が遠ざかる。

 美弥は俊の後ろ姿を見送っていたが、やがてその顔から慈愛に満ちた表情が消え失せた。取って代わったのは、氷のような憎悪だ。

「寝たふりはやめてよ。起きてるんでしょ!」

 美弥は扉を押し開けると、私を思い切り蹴りつけた。

「いい気なもんね。俊にあそこまで執着されるなんてさ!」

 私は痛みに耐え、無言を貫いた。

 彼女はしゃがみ込むと、私の髪を掴んで無理やり顔を上げさせた。

「今、どんな気分? 誇らしい? 感動した?」

 彼女の声には悪意が満ちている。

「言っておくけど、自惚れないで。あんたはもう彼の妻じゃないの。俊にあんたを捨てさせる方法なんて百通りはあるわ。あのケーキみたいに簡単によ」

「……この、イカれ女……」

 私は歯を食いしばって呻いた。

「イカれてる?」

 美弥が高らかに笑う。

「それがどうしたの? あんたに何ができるっていうわけ? 俊が私を娶るのを、あんたが全てを失うのを、特等席で見せてあげるわ!」

 彼女は手を離し、スカートの埃を払って立ち上がった。

「闇を楽しんでね、お姉ちゃん」

 扉が重く閉ざされ、再び闇が全てを飲み込んだ。

          ◇

 どれくらいの時間が経ったのか分からない。ドアの外で微かな物音がした。

 ドアの隙間から、手が何かを差し入れてくる――私のスマートフォンだ。

「奥様……」

 赤石の声だ。とても小さい。

「Bossを説得して、なるべく早くここから出します。もう少しだけ、耐えてください。お願いします」

 そして、足音が急いで去っていった。

 私は震える手でスマートフォンを拾い上げた。

 画面が点灯し、その刺すような光に目を細める。

 一件の友達申請が届いていた。

 見知らぬアカウントだが、添えられたメッセージは一文だけ。

『もしも逃げたいなら、俺が助ける』

 平塚弘哲。

 私はその文字列を見つめ、指を画面の上で止めた。

 前世の私は、決して他人に頼ろうとしなかった。だが今世では、生き延びなければならない。お腹の子のために。

 そして弘哲こそが、俊に対抗できる唯一の人間だ。

 私は「承認」をタップし、震える指で文字を打ち込んだ。

『ここから出して。一刻も早く』

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