第4章

由梨の視点

 翌朝。物置部屋のドアが唐突に開け放たれた。

 私は反射的に身を縮めた。また美弥が私を辱めにきたのだと思ったからだ。だが、入り口に立っていたのは赤石だった。

 彼は額に汗を浮かべ、切迫した様子で言った。

「奥様、逃げてください。ボスは東地区へ出向いていて、戻るまであと二時間はかかります」

 私は何とか立ち上がろうとしたが、声は枯れ果てていた。

「そんなことをしたら、あなたが殺されるわ」

「分かっています」赤石は私の体を支えた。

「ですが、あなたがここで死ぬのを黙って見ているわけにはいきません。二年前のE市で、俺の命を救ってくださったのはあなただ。この恩は返さなければ」

「さあ早く、裏口から出てください。俺の車があります」

 彼は車のキーを私の手に押し付けると、足早に去っていった。

 私は深く息を吸い込み、階段へと向かった。窓から射し込む陽光が、目に突き刺さるように痛い。自由は、もう目の前にある。

「お姉ちゃん、どこ行くの?」

 美弥の声が階段の踊り場から響いた。彼女はそこに立ち尽くし、私をじっと見据えていた。

 私は何も答えず、ただ前へと進んだ。

「待ちなさいよ!」彼女は私の前に立ちはだかると、突然甲高い叫び声を上げた。

「お母さん! お父さん! 由梨が逃げようとしてる!」

 昭子と正人がすぐに駆けつけてきた。

「捕まえて!」美弥が命じる。

 昭子が突進してきて私の腕を掴み、正人が反対側から回り込む。私は必死に抵抗したが、体はあまりにも衰弱していた。

「離して!」

「逃げられるとでも思った?」美弥は冷笑した。

「由梨、あんたがいなくなったら、俊さんは余計にあんたのことを忘れられなくなる。ここに残って、自分がどれだけ性根の腐った女か、あの人に見せつけるのよ!」

 私は一歩後ずさり、足を滑らせた。階段から転げ落ちそうになる――。

 その時、美弥がとっさに手を伸ばし、私を掴んだ。一瞬、私は呆気に取られた。彼女が、私を助けた?

 だが次の瞬間、彼女の瞳の奥に悪意が煌めくのを私は見た。彼女は掴んだ手を離し、自ら背中から身を投げ出したのだ。

「きゃああああ――!」

 悲鳴を上げながら、美弥は階段を転げ落ちていった。肉体が段差に打ち付けられる鈍い音が響く。

「美弥!」昭子と正人が同時に叫んだ。

 階下から、俊の声が聞こえた。

「美弥!」

 階段の下で、俊が美弥を抱きかかえて膝をついているのが見えた。

 彼は顔を上げ、その目に凄まじい怒りの炎を燃え上がらせた。

「由梨! 貴様、美弥に何をした!?」


 私は地下のワインセラーへ引きずり込まれた。

 冷たく、湿っぽく、空気には鉄錆とカビの臭いが充満している。壁には拘束具が掛けられ、床にはどす黒い血痕がこびりついていた。

 昭子が金切り声を上げた。

「俊さん、全部由梨の仕業よ! 逃げようとしたのを美弥に見つかって、あの子を階段から突き落としたのよ!」

「違う、私はやってな――」

 パンッ!

 正人が駆け寄り、私の頬を張り飛ばした。

「まだ言い逃れをする気か! 美弥は左目を負傷したんだぞ! 医者は失明するかもしれないと言っている!」

「なんて性根の腐った女なの!」昭子が泣き叫ぶ。

「苦労して育ててやった恩を、こんな形で返すつもり? 妹の人生を壊す気なの!」

 私は彼らを見渡し、突然笑い出した。涙が出るほど可笑しかった。

「育ててくれた? あなたたちが一度でも、私を娘として扱ってくれたことがあった? 小さい頃からずっと、私は美弥のお下がりの服を着せられ、残飯を食べさせられ、物置部屋で寝起きしてきた。美弥にはピアノを買い与え、留学までさせたのに、私は? 大学に行きたいと言えば、隠れてバイトをするしかなかった! あなたたちの目には美弥しか映っていなかった、私なんて最初からいなかったじゃない!」

 昭子の顔がみるみる赤く染まる。

「それはあんたが美弥より出来が悪いから――」

「もういい」

 俊が一喝した。そしてゆっくりと私の前へ歩み寄る。その瞳は、恐ろしいほどに冷え切っていた。

「由梨。美弥には角膜の移植が必要だ」

 私は言葉を失った。

「え……?」

「左目の網膜が深刻な損傷を受けていると医者が言っている」彼は私を見下ろした。

「移植しなければ、あいつは二度と光を見られなくなる」

 全身の血液が凍りついたようだった。

「俊、そんなこと――」

「そんなことだと?」彼は冷たく笑った。

「お前が美弥をあんな目に遭わせたんだ。自分の目で償うのが道理だろう」

「私はやってない! あの子が自分から落ちたのよ! これは罠なの!」

「ボス!」

 突然、赤石が突き飛ばされるようにして部屋に入ってきた。

「奥様は本当に何も――」

 銃声が轟いた。

 赤石の肩が弾け、血飛沫が舞う。彼はよろめきながら倒れ込んだ。

「誰が手引きしたか知らんとでも思っているのか?」俊は冷酷に言い放った。

「とっとと失せろ、処罰を受けてこい。これ以上喋れば犬のエサにするぞ」

 赤石は絶望的な目で私を見つめながら、引きずり出されていった。

 俊が再び私に向き直る。

「すぐに口野医師を呼べ。今すぐにだ」

「いや……やめて……」私は叫んだ。

「俊……お願い……」

 だが、彼はすでに背を向け、立ち去っていた。


 翌日、目が覚めた時、私は片目を完全に失っていた。

 それからの日々は、地獄のように長く感じられた。毎日運ばれてくるのは干からびたパンと濁った水だけ。私の体は日に日に衰弱し、左目の傷口は化膿して悪臭を放っていた。誰も来ない。誰も私の生死になど関心がない。

 私は喉を通らないような食事を無心で詰め込み、泥のような水をすすった。痛み、絶望、憤怒――あらゆる感情が日々の責め苦の中で麻痺していく。

 泣くことも、哀願することもなくなり、ただ機械のように生きていた。お腹の中にいる子供のために。

 ある日の午後、セラーのドアが突然開いた。

 美弥だった。彼女は豪奢な純白のウェディングドレスを身に纏っていた。

「由梨、見て。私を見てよ」彼女はくるりと回ってみせた。

「綺麗でしょう?」

 私は壁にもたれかかり、残された片目だけで彼女を見つめたまま、何も言わなかった。

「俊さんと私、明日結婚するの」彼女は笑った。

「ここの庭園でね。残念ながらあんたは出席できないから、特別にドレスを見せに来てあげたのよ。パリで特注した、世界に一着だけのドレス。俊さんが、私には最高級のものこそ相応しいって」

 私は冷ややかな視線を向けた。

「望みが叶ってよかったわね」

「それもあんたのおかげよ」彼女は近づき、しゃがみ込むと、声を潜めて陰湿に囁いた。

「あんたの犠牲がなかったら、俊さんがこんなに早く私との結婚を決意してくれたかしら? それから、あんたの目にも感謝しなきゃね。大切に使わせてもらうわ」

 彼女は突然、ポケットから小さな薬瓶を取り出した。

「ああそうだ、もう一つ用事があったわ。口野先生から聞いたんだけど、あんた妊娠してるんだって? 驚いたわ、お姉ちゃん」

 心臓が早鐘を打った。

「何をする気?」

「もちろん、その厄介事を片付けてあげるためよ」彼女は薬瓶の蓋を開けた。

「ほら、これを飲むのよ」

「嫌っ!」

 私は必死に抵抗したが、彼女は私の顎を掴み、無理やり薬を口の中へ流し込んだ。

 冷たい液体が喉を滑り落ちていく。

「嫌……やめて……私の赤ちゃん……お願い、この子だけは……」

 美弥は手を離すと、立ち上がってドレスの裾を払った。

「さて、結婚式の準備に行かなくちゃ。お姉ちゃん、ゆっくり楽しんでね」

 重い扉が閉ざされた。

 直後、ナイフで内側から切り裂かれるような激痛が腹部を襲った。

「嫌……だめ……」私は床にうずくまり、両手でお腹をきつく抱きしめた。

「赤ちゃん……頑張って……ママがお願いしてるの……」

 生温かい液体が太腿を伝い落ちる。そして、あの空洞のような、底知れぬ絶望感が私を包み込んだ。

「ごめんね……赤ちゃん……」私は声もなく泣いた。

「守ってあげられなくて、ごめんね……」


 邸宅の庭園では、結婚式が執り行われていた。

 白い花々で埋め尽くされた会場、優雅な音楽、美しく飾り付けられたアーチ。美弥は正人の腕を取り、バージンロードを歩く。参列者たちが立ち上がり、拍手を送る。

 祭壇の前には、黒のオーダーメイドスーツに身を包んだ俊が、冷厳な表情で立っていた。

 岩本大地が微笑んで言った。

「本日、私たちは武藤俊氏と西園寺美弥嬢の神聖なる結婚の誓いに立ち会い――」

 突然、耳をつんざくようなラッパの音が鳴り響いた。

「さあ諸君! この新郎新婦を盛大に祝おうじゃないか! 結婚おめでとう!」

 ピエロの衣装を着た一団が庭園になだれ込んできた。彼らはラッパを吹き鳴らし、太鼓を叩き、紙テープや風船を撒き散らした。

「な、なんだあれは?」参列者たちが悲鳴を上げる。

 先頭のピエロが拡声器で叫んだ。

「結婚おめでとう! 我らがボス、平塚さんからの特大プレゼントだ!」

 俊の顔色が瞬時に蒼白になり、怒りに染まる。

「こいつらを叩き出せ!」

 ボディーガードたちが飛び出したが、ピエロたちは四方八方へ逃げ回り、人混みの中で混乱を巻き起こした。花火が芝生の上で炸裂し、結婚式場は阿鼻叫喚の巷と化した。

 美弥が金切り声を上げる。

「俊! 早く追い出してよ!」

 混乱は十分近く続いた。ようやくボディーガードたちがピエロたちを屋敷から追い出し、式場に秩序が戻った。

 岩本大地が額の汗を拭った。

「ええ……では、続けましょうか?」

 俊は頷いたが、その表情は陰鬱なままだった。


 その頃、屋敷の門の外では。

 一台の黒塗りのセダンが路肩に停まっていた。弘哲が後部座席のドアを開け、瀕死の私を抱きかかえて中へと入れた。

「ありがとう……」私はか細い声で言った。

「喋るな」弘哲は私にブランケットを掛けた。

「まずはゆっくり休め」

 車は静かに発進し、屋敷を離れていく。窓の向こうから、結婚式を祝う音楽が聞こえてきた――『Wedding March』。なんと陽気で、喜ばしい旋律だろう。

 私は目を閉じた――残されたたった一つの目を。涙が音もなく頬を伝う。

 陽射しは暖かく、音楽は美しく、誰もが二人を祝福している。そして私は、ようやくこの地獄から抜け出したのだ。

 俊、これが最後だ。次に会う時、私はもう、惨めに許しを乞う由梨ではない。後悔させてやる。私にしたこと、そのすべてを。

 さようなら、私の地獄。

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