第1章
ホテルのスイートルーム。
荒い息がようやく静まり、不二篠の爪が男の背中に赤い筋を何本も刻んでいた……。
…………
ドンドン、と乱暴なノックが続き、酔いつぶれていた意識が無理やり引き戻される。
昨夜、何が起きた?
自分の婚約パーティーで、婚約者の元カノが――自分たちがベッドでしている動画を流したのだ。
会場は笑い、視線は刺さり、篠は晒し者になった……。
酒の勢いで、彼女は見知らぬ男と一夜を共にした。しかもその相手は、法曹界で「鬼」と恐れられる敏腕弁護士――氷室悠。
最悪なのは、その氷室を、昔の自分が追いかけ回してやっと付き合えたくせに、たった一日で振り捨てたことだ。
そのせいで悠は、長い間“ネタ”にされてきた。
かつての元彼は、彼女が今の婚約者に裏切られる瞬間を目の当たりにしたあと、今度は自分が支えになろうとした――そんな皮肉。
篠は、芸能界で築いてきた清純派の看板が、今にも引き裂かれそうな気がした。
「起きたか?」
隣の男が気だるく身を起こし、煙草に火をつける。鼻で笑うような小さな息。
「不二さんと婚約者、面白い関係だな。お互い好きに遊んでるってわけ?」
篠は心の中で、口にするのも汚い罵りを投げつけた。
悠が指先を伸ばし、ベッドサイドの灰皿を引き寄せる。
「寝る前の男、って心理は何だ。婚約者を不快にさせたいだけ?」
淡々と、けれど刃のように。
「お前ら、ほんと気楽だな。好きにやって、互いにノータッチ。便利だ」
篠はシーツを体に巻きつけ、床に落ちていたガウンを拾って肩にかける。
つま先を動かして振り返ると、ベッドヘッドに寄りかかった男がいた。上半身は裸のまま、下だけを布団が薄く覆い、指には今つけたばかりの煙草。
だるさと色気が同居している。――反則級に整った顔。
深く暗い瞳が、篠にまっすぐ落ちる。言い訳でも、罵倒でも、何でもいいから口を開けと言わんばかりに。
氷室悠。帝都で一番と名を轟かせる、冷酷で手強い弁護士。
「……氷室弁護士が、どうして私のベッドに?」
「それはこっちが聞きたいな、不二さん」
悠はベッドサイドに置かれたスマホの横からカードキーをつまみ上げ、篠の目の前でひらりと振った。
篠の顔色が、見る見るうちに変わる。
――氷室と法廷でぶつかったら、丸裸にされる。
そんな噂が頭をよぎった。
よりにもよって、何でこの男を。
冷たくて、刺さる。心なんて最初から付いていないみたいな男。
「昨夜は……飲みすぎました。氷室弁護士、気にしないでください」
そう言いながらも、篠は平然を装ってベッドの足元へ歩き、床に落ちた白いシャツを拾って袖を通す。ガウンが落ち、雪のような肌があらわになる。
悠の目が細くなった。値踏みするような視線。
「不二さんは、酔うといつもそんなふうに適当に人のベッドに潜り込むのか? 男を押さえつけて無理やり?」
説明する気はない。そもそも、元恋人として関係が良好だった覚えもない。
「そうかもね。多いときは、一日に二回くらい」
篠は床のバッグを拾い上げ、中から札束を抜いてベッド横の長椅子に置いた。
「五万。昨夜、悪くなかった」
悠の顔から温度が消え、じわじわと不快が滲む。
――買う気か。俺を何だと思ってる。
「五万で一晩? 不二さん、自分を買いかぶりすぎだろ」
篠は何かを思い出したように頷き、バッグの中を指で探って、小さな硬貨を一枚つまみ出す。
「じゃあ、こっち。これが氷室様の価値」
「……は」
悠は、怒りで笑った。買うだけじゃない。侮辱まで添えてくる。
「婚約パーティーで婚約者に浮気されて、相手は無名の小さな秘書。今、不二家も藤原家もぐちゃぐちゃだ」
悠は一歩、距離を詰める。
「俺がお前と寝たって話を流したら、不二さんは何を得られる?」
ベッドを降り、床のバスタオルを拾って腰に巻く。
「俺が不二さんなら、そんな割に合わない取引は絶対にしない」
言葉が、じわじわと痛いところを抉る。
「もともと和也のこと、好きじゃなかったんだろ。なのに婚約者が、しょぼい相手と浮気。帝都で名のある不二さんの顔、どこに置くんだ?」
篠は舌打ちした。
「それ、氷室弁護士に関係ある?」
「関係ない。けど……」
悠が唇の端を歪める。邪悪なくらい楽しそうに。
「笑いものは好きでね。特に――お前の」
篠は、呆れと怒りで笑った。
「見かけによらない。氷室弁護士、スーツ着てると人間っぽいのに、脱いだら人間じゃない」
「求めに来いよ」
悠が篠の顎を掴み、低い声で言った。
篠はその手を払いのける。
「寝言は寝て言って」
…………
藤原家。
藤原和也が床に膝をつき、震えながら俯いていた。
「父さん、俺だって昨日あんなことになるなんて……あの女とは、ただの遊びで……」
「遊び? 何が遊びだ。偉くなったつもりか? 女買っておいて、よくそんな立派な口がきけるな」
「でも父さん、俺にも限界があるんだ! 篠とは婚約して一年以上だぞ、触らせてもくれない。俺だって男なんだ、欲求くらい――」
「外道が」
不二武治が藤原家の玄関先に来た途端、その言葉が耳に入った。
殴りかかろうと腕を上げた、その瞬間――どさり。武治はその場に崩れ落ちた。
…………
車内。
マネージャーの視線が、篠の頭をこじ開けて中身を確認したいと言わんばかりだった。
「誰でもよかったのに、なんで悠なのよ。篠、芸能界で生きる気ある?」
「本気になったら、悠はあなたを“買春”で潰せるのよ」
篠は内心、いやいや……さすがにそこまでは、とも思う。
「でもそれ、氷室が自分はホストでしたって認めることになるじゃない」
「あなたが買春で失うものと、あっちがホスト扱いされて失うもの。どっちがデカいと思ってるの?」
マネージャーが苛立ちを噛み殺す。
「まだ地盤が固まってないのに!」
「芸能界で、悠に顧問を頼みたがってる人間がどれだけいるか知ってる? もう……!」
篠は頭痛を堪え、マネージャーの腕に絡みつくように甘えた声を出した。
「でもさ、寝ちゃったものは戻らないでしょ。怒っても意味ないし。ねえ、それより私が損しないように、どう火消しするか考えよう?」
今朝から、取ったばかりの契約――代言、映画、広告――あちこちから問い合わせが殺到している。こじれたら違約金だけで死ねる。
マネージャーが、情けなさと怒りを混ぜた目で睨む。
「藤原家、和也とその女、二人まとめて海外に飛ばした」
「……いつ?」
篠は目を見開いた。復讐する間もなく逃がす? 藤原家、何を考えてる。
「冗談でしょ」
「冗談なわけないでしょ。あなたのお父さん、あっちで怒りすぎて倒れたのよ」
マネージャーの声が冷える。
「お父さんの面子がなかったら、藤原家があなたに説明なんてする? 今、お父さんは生死も分からない。向こうだって先に手を打つに決まってる。……その女、妊娠してるし」
篠は言葉を失った。
…………
本来なら午後はスパで身体をほぐすつもりだった。
昨夜は悠にいいようにされて、何ひとつ得をしていない。あの男、容赦がなさすぎる。心も体も休めたかったのに。
行動に移す前に、不二奈央から電話が入った。
『お父さん、死にかけてる。すぐ戻りなさい』
篠は送迎車の中、保温ボトルから枸杞茶を啜る。
「また“死にかけてる”って。で、結局死ぬの? 死なないの?」
『口答えしない。直樹と、あの隠し子たちも動いてる。戻らなきゃ、何も取れないわよ』
不二家当主の武治は、筋金入りだった。人生の最後まで、若い女が好きで好きで仕方ない。
いい歳しても隠し子が次々と名乗り出る。
篠の母――武治の二人目の妻である奈央は、そんなことには慣れきっていた。隠し子が何人いようがどうでもいい。ただ、自分たちの取り分は渡さない。それだけ。
篠が不二家の本宅へ戻ると、奈央は待ってましたとばかりに篠の腕を掴み、寝室へ引きずり込んだ。
「あとで弁護士に確認して。財産、どう分けるのか」
「前に聞いたじゃない。遺言はないって」
「今回ばかりは本当にダメかもしれない。念のため、腕のいい人を押さえるの」
「誰に?」
奈央が一瞬も迷わず言った。
「悠」
「……っ」
噴きそうになって、篠は咳き込んだ。さっきまで寝てた相手に、今から頭を下げろって?
「別の弁護士にして」
「それが一番いい選択なの」
奈央の目が重い。
「ママ、私、さっきその人と寝たばっかりなんだけど。さすがに――」
「だからいいのよ。抱いた男が一番口が軽くなるの」
言い切って、奈央は眉を吊り上げた。
「隠し子たちに、あなたの取り分を奪われたほうがいい?」
篠は黙るしかなかった。
奈央が畳みかける。
「1000億と100億。どっちを取る?」
選ぶまでもない。1000億に決まっている。
「あなたが揉めてる隙に、藤原家は“お父さんがもう持たない”って踏んで、家族ごと海外に逃げた。今のままじゃ、あなたは何も掴めない」
奈央の声が低くなる。
「お父さんがいなくなったら、あなた何で生きるの。芸能界で必死に稼ぐその程度の金? そのうち高級車も家も、エルメスも売る羽目になる。プライベートジェットで買い物? 夢のまた夢」
胸の奥が、じりじりと焦げた。
「一年か一年半もしたら、和也が子ども抱いて、妻の手を引いて、あなたの前を平然と歩く。……それ、耐えられる?」
耐えられない。
貧乏でもいい。けど、あの男が家族を見せびらかしに来るのだけは――絶対に無理だ。
屈辱だ。
篠は、息を吐いて言った。
「……今すぐ行く」
