第2章
石原真奈美の視点
彼の動きがぴたりと止まった。最悪の瞬間、私はこれを完全に読み違えて、考えうる限り最も屈辱的な形で拒絶されるんだと思った。でも、彼は私を見た。本当に、私を。本気かどうか確かめるように。
「ああ」と彼は静かに言った。「わかった」
部屋を取るまでの記憶は曖昧だ。キーカードをうまく扱えずにもたつく間、心臓が耳元で鳴っているかのように、激しく鼓動していた。ドアが閉まった瞬間、私は彼にキスをした。自分でも驚くほどの必死さで彼を壁に押し付ける。彼はすぐにキスを返してきた。その手は私の腰に、髪に添えられ、まるで彼も同じくらいこれを必要としていたかのように、私を強く引き寄せた。
「今夜は、何もかも忘れたいの」私は彼の唇にそう囁いた。
「いいよ」彼はさらに激しくキスをしてきた。
白いカーテン越しに差し込む淡い光で目が覚めた。頭が少し痛む。本格的な二日酔いではないけれど、それに近い。隣のベッドは空だったが、まだ温もりが残っていた。バスルームから水の流れる音がする。
なんてこと。
すべてが蘇ってきた。あのバー。交わした会話。……私、いったい何をしちゃったんだろう?
すりガラスの向こうに、バスルームにいる彼のシルエットが見える。広い肩。引き締まった体。顔がカッと熱くなった。
今すぐここから出なきゃ。絶対に。
できるだけ静かに床から服を拾い上げ、三十秒ほどで身支度を整えた。ハンドバッグ、靴、スマホ。シャワーの音はまだ続いている。置き手紙も何も残さず、とにかくその場から逃げ出した。
自室に戻っても、ずっとあの時のことを再生していた。彼の顔。彼の声。私の体に触れた彼の体の感触。どれだけ良かったか。
やめなさい。ただの一夜限りの関係でしょ。もう二度と会うことなんてないんだから。忘れなさい。
でも、考えるのをやめられなかった。彼のことを。
その日の残りの時間は大通りをぶらぶら歩き回り、自分の気持ちを紛らわせようとした。いくつか店に入り、コーヒーを買い、プールのそばで本を読むふりをして座っていた。でも、心はあのホテルの部屋に舞い戻ってしまう。
私、どうかしちゃったんだろう?
拓也から逃げるために、頭を冷やすためにここに来たのに、私がしたことといえば何?ホテルのバーで適当な男と寝ること。本当に、大人な対応ね、真奈美。ちゃんと自分の人生をコントロールできてるじゃない。
二日目になると、罪悪感が私を苛み始めた。悠斗とのことに対する罪悪感じゃない。そのこと自体は後悔していなかった。でも、自分自身に対する罪悪感はあった。問題から逃げ出した挙句、衝動的な決断を下すような人間であることに対して。私はずっと、自分を責任感があって、しっかりした人間だと自負していたのに。それが今では、まるでラブコメの登場人物みたいに、一夜限りの関係の後に青葉市で身を隠している。
馬鹿みたい。もう家に帰ろう。
おかしなことに、星見市を発ってから拓也からの連絡は一度もなかった。テキストメッセージの一通すらない。もしかしたら莉々の言う通り、彼もついに飽きて次へ進んだのかもしれない。あるいは、ただ態勢を立て直して、次の手を考えているだけか。どちらにせよ、青葉市で一人で座っていても、何の助けにもならない。
その朝、私は何度も携帯をチェックした。やはり拓也からは何もない。そして当然、悠斗からも何もない。連絡先を交換しなかったのだから。だって、ただの一夜限りの関係だったから。それだけの関係のはずだったから。
家に帰って、現実と向き合う時だ。
その日の午後、私はホテルの残りの予約をキャンセルし、フライトを翌朝に変更して、荷造りを始めた。なんだか、敗北を認めるような気分だった。逃げ出したはいいけれど、二日酔いと少しの後悔以外、何も得られなかった、みたいな。
でも……後悔、じゃない?自分の気持ちがまったく分からなかった。
星見市への帰りのフライトは、行きの時よりも長く感じられた。旅行中の出来事をずっと頭の中で再生していた。バーでのこと、悠斗の笑顔、一人で目覚めた朝、臆病者のように逃げ出したこと。星見市に着く頃には、自分はなんて馬鹿なんだろう、誰かにこの話を聞いてもらわなきゃ、と心に決めていた。
家に帰ってすぐ、莉々に電話をかけた。
「もう帰ってきたの?」と彼女は言った。「一週間は留守だと思ってたけど」
「予定変更よ」私は玄関にスーツケースを放り投げ、ソファに崩れ落ちた。「言わなきゃいけないことがあるの」
「え、何があったの?拓也が現れたとか?」
「ううん、そういうのじゃなくて。私……」一息ついてから言った。「なんていうか、一夜限りの関係しちゃった」
沈黙。そして、「ごめん、何て?」
「ホテルのバーで男の人と出会って。話して、飲んで、それで……まあ、そういうこと。で、朝になってパニックになって、彼がシャワーしてる間逃げ出しちゃった」
「石原真奈美が?あの、カレンダーを色分けするほど几帳面な建築家のあなたが、青葉市で一夜限りの関係?」莉々は心底楽しそうな声だった。「正直、誇りに思うわ」
「やめてよ。自分が馬鹿みたいに感じるんだから」
「どうして?ひどかったの?」
「ううん」顔が熱くなるのを感じた。「すごく良かったの、実は。それが問題なのよ」
「それがどうして問題なの?」
「だって、私はこんなことしないもん、莉々。ホテルのバーで知らない男と寝たりしない。自分の人生から逃げたりしない。なのに今、彼のことが頭から離れないの。あり得ないでしょ、もう二度と会わないのに。それに、きっとこれは拓也のことでまだ混乱してるから、勝手に投影してるだけなんだろうし――」
「はいはい、落ち着いて」と莉々が遮った。「まず第一に、あなたは『人生から逃げた』わけじゃない。すごく必要だった休暇を取っただけ。第二に、お互いが望んでたなら一夜限りの関係に何の問題もない。そして第三に、それについてどう感じようとあなたの自由よ」
私はうめき声を上げた。「ただ、自分が馬鹿みたいに感じるの。青葉市に自分の問題を整理しに行ったのに、かえって混乱を増やしただけって感じ」
「まあ、少なくとも拓也のことは忘れられた?」
考えてみた。「うん、そうかも。彼のことはほとんど考えなかった」
「じゃあ、目的達成ね。それに、少なくともあなたは――」
携帯が震えた。別の電話が着信している。
父からだ。
「莉々、ごめん、切るね。父さんから電話」
「わかった。でもこの話はまだ終わりじゃないからね!詳細が聞きたいんだから!」
電話を切り替える。「もしもし、お父さ――」
「真奈美、君の将来について話がある」
私は目を閉じた。
「私、もう二十五歳だよ。ちゃんとした仕事だってあるし――」
「だが安定がない。母さんと私は辛抱強く待っていたが、そろそろ身を固める時だ」父は、議論が始まる前に終わったことを意味する、あの声色で言った。「明日、夕食の席を設けた。午後七時、料亭いぶきだ。橋本翔太さんの息子さんだ。頭も良くて、成功していて、家柄も良い。君も気に入るはずだ」
「お父さん、いきなりそんな――」
「明日だ。午後七時。遅れるなよ」
電話は切れた。
私は携帯を見つめた。よりによって今こんなことをするなんて。完璧なタイミングだ。
翌日。私はシンプルな黒いドレスを着て、料亭いぶきの前に立っていた。父が選んだどこの誰とも知らない男と、当たり障りのない会話をするために気合を入れようとしていた。
これを乗り切るだけ。礼儀正しくして。それから父さんに、うまくいかなかったって言えばいい。
父からテキストで知らされた個室を見つけ、戸を開けた。
そして、息が止まった。
青葉市の男の人。同じ顔。同じ顎のライン。同じ黒い瞳。テーブルの向こうに座って、私と同じくらいショックを受けた顔をしている。彼の目は大きく見開かれ、口が何か言おうとしてわずかに開いたが、言葉は出てこなかった。私たちはただテーブル越しにお互いを見つめ合い、顔が熱くなるのを感じた。
なんてこと。なんてこと。
この人は、一週間も経たないうちに私が青葉市でセックスした相手だ。
吐きそう。
いや。これは現実じゃない。こんなこと、起こるはずがない。
でも、それは現実だった。
私の青葉市での一夜限りの関係の相手が、私のお見合い相手だったのだ。
