第3章
長い沈黙の後、涼真はようやく振り返ったが、その視線は別の場所を向いていた。「絵梨、考えすぎだよ」
「私が初めてだって、真矢が言ってました」私は彼の目をまっすぐに見た。「それって、偶然じゃないでしょう?」
涼真の顎のラインが強張った。「君が……条件を満たしていたからだ」
「条件って何ですか?」
「こういう契約に協力できる人間の条件だ」彼の声はどこか不自然に聞こえた。「君は女優だ。このビジネスに何が必要か、わかるだろう」
私は彼を数秒間見つめた。何かがおかしい。でも、それが何なのかはっきりしない。彼の視線は……あまりにも何かを避けている。
「わかりました」私はついに頷いた。「サインします」
彼を完全に信じたからじゃない。あの7,500万円と、これから失うものすべてのためだ。
涼真は目に見えて安堵し、プロフェッショナルなモードに戻った。「里紗がすべて手配する」
秘密保持契約書と演技指導契約書にサインする私の手は、まだ微かに震えていた。魂を売っているような気分だったが、これは一時的なものだと自分に言い聞かせた。
「二時間以内に引越し業者が到着します」山本さんは効率よく書類を回収した。「別荘の鍵と車の鍵はこちらです」
二時間後、車が海岸線を走る頃、私の心臓は止まりかけた。
「うっそ……」私は窓に顔を押しつけ、目の前の光景に目を見開いた。
これは家じゃない――芸術作品だ。
十二億円の海に面した豪邸が崖の上に静かに佇み、床から天井までの窓が海の金色の陽光を反射している。インフィニティプールは水平線まで直接続いているように見えた。私はごくりと喉を鳴らし、一つの考えが頭をよぎった。私、本当にここに住むの?
「津崎さん、到着しました」運転手が丁寧にドアを開けてくれた。
私は足元がおぼつかないまま車から降りた。ネットフリックスで観るセレブの豪邸ツアーが……あれ? なんかスラムに見えるんだけど!
「来たんだね」完璧に仕立てられたカジュアルウェア姿の涼真が玄関から現れた。まさにこの豪邸の主といった風情だ。まあ、実際にそうなのだが。
「ここ……本当にあなたの家なんですか?」私の声は震えていた。
涼真はクールに微笑んだ。「新しい職場へようこそ。入って。案内するよ」
職場? 私の内なる天秤が一瞬で傾いた。そうだ、これはただの仕事だ。
リビングに足を踏み入れた瞬間、私は完全に言葉を失った。吹き抜けの高い天井、イタリア産大理石の床、そしてあれは……嘘でしょ、プライベートシアター?
「リビング、ダイニング、キッチン」涼真は機械的に紹介していく。「地下一階にジム、地下二階にシアタールーム」
「プライベートシアター……」私は呆然と呟いた。
「ラッシュの確認用だ」涼真は付け加えた。「君のゲストスイートは二階。バスルームとウォークインクローゼット付きだ。俺のマスターベッドルームとオフィスエリアは三階だから――邪魔しないでくれ」
私ははっと我に返った。「じゃあ……寝室は別々なのですか?」
「当然だ」涼真は私の視線を避けた。「これはビジネスだ。それ以上でもそれ以下でもない」
「それじゃあ……この契約のルールは?」私は恐る恐る尋ねた。
涼真は立ち止まり、私に向き直った。「簡単なことだ。人前では、君は俺の彼女だ。プライベートな時間は君自身のもの。それ以外は、普通の……ビジネス関係と同じだ」
月給7,500万円で海辺の豪邸付きの普通のビジネス関係? 私は心の中で皮肉を言ったが、口には出さなかった。
「ガレージに高級車があるから自由に使っていい」涼真は続けた。「暗証番号は君の誕生日だ」
「どうして私の誕生日を?」
「会社の人事ファイルだ」彼は何かをごまかすように、早口で答えた。
案内が終わると、涼真は三階のオフィスエリアに消えてしまい、私はこの巨大な黄金の鳥籠に一人取り残された。
私はソファに腰を下ろし、リモコンを手に取った。壁一面を覆うほどの85型4Kテレビがぱっと光を放ち、画面には『高慢と偏見』が映し出された。
「エリザベスの感情の起伏が浅すぎる」私はテレビを分析し始めた。「ダーシーに対する偏見の変化が早すぎて、心理的な深みに欠ける。ここはこう演じるべきなのに……」
私は立ち上がり、画面のシーンを真似し始めた。
「ダーシーさん、あなたのプロポーズには驚きました。でも、お断りしなければなりません」私は何もない空間に向かって情熱的に演じた。「あなたの社会的地位のせいではありません。あなたの人格的欠陥のせいです……」
演技の途中で、私はふと自分の今の役目を思い出した。彼の彼女を説得力を持って演じるつもりなら、金持ちのライフスタイルを理解する必要がある。
私のメソッド演技のスイッチが完全に入った。
私はガレージに駆け込み、光り輝く高級車を見つけた。
「金持ちはどうやって車の中でさりげない優雅さを演出するんだろう?」私は運転席に座りながら独り言を言った。
助手席のグローブボックスから、私はゴープロを見つけた。
「完璧! これで私のリサーチ過程を記録できるわ!」
私はゴープロをダッシュボードに設置し、カメラに向かって「練習」を始めた。
「涼真、今日の会議はどうだった?」私はレンズに向かって魅力的に微笑んだ。「あなたを家で待ってるの、退屈しちゃった……」
「ううん、わざとらしい」私はもう一度やり直した。「ねえ涼真、おかえり? プールサイドで台本を読んでたの……」
いい感じになってきたところで、二階で涼真が電話しているのが聞こえた。
「ええ、明日香、明日の会議は来週に延期になった……何? 仕事に戻りたくない? 雅人からどんな条件を提示されたのか?」
明日香? 明日香って誰? 私のゴシップレーダーが即座に起動した。
私はそっと階段に近づき、もっとはっきり聞き取ろうと耳を澄ませた。
「君の選択は理解するが、俺のプロジェクトには常に最高の人材が必要なのは知っているだろう……」涼真の声には、どこか諦めの色が滲んでいた。
私の嫉妬の演技の本能が刺激された。階段の途中で立ち止まり、私は『リハーサル』を始めた。
「あら、ごめん。彼女と話してるとは知らなかったわ。明日香はまた何かお願い事でもあるのかしら?」
「あなたたち二人の間に、私が知っておくべき過去でもあるのかしら?」
「絵梨?」
不意に二階から涼真の声がして、階段から転げ落ちそうになるほど驚いた。
「わ、私……ただトイレを探してただけだから!」私は気まずく言い訳した。
「お客様用の化粧室はキッチンの隣だ」涼真は表情を読ませないまま階段を下りてきた。「さっきのは……何のリハーサルだ?」
「何でもない! ただ……オーディションの練習! 嫉妬する場面ってよくあるでしょ、演技力を鈍らせないために……」私はトマトみたいに顔を真っ赤にした。
涼真は私を数秒見つめた。「嫉妬のリハーサルなんて必要ない。これはただのビジネス上の契約だ」
「もちろん」私は必死に頷いた。「職業病よ」
夕暮れ時、私は床から天井までの窓のそばに立ち、夕日を眺めながら、さらなる『リサーチ』をせずにはいられなかった。
「お金持ちの彼女なら、こういう夕日をどう鑑賞すべきかしら?」私は色々なポーズをとってみる。「物憂げに見つめるか、それとも満足げに微笑むか?」
「あるいはこうかしら……」私は腕を組み、孤独なポーズをとる。「黄金の鳥籠に囚われた鳥……」
本当に涙が流れてきた。
「なんてこと、私の感情表現の真実味がどんどん増してる!」私は興奮しながら叫んだ。「この囚われた感じ、すごくリアル!」
「絵梨?」涼真が不意に背後に現れた。「……泣いているのか?」
私は慌てて涙を拭った。「ち、違う違う! 感情シーンの練習をしてただけ! この失恋の表情、すごく難しくて!」
彼は何か言いたそうだったが、結局ただこう言っただけだった。「夕食が届いた」
ダイニングルームには、ミシュラン星付きレベルの見事なイタリア料理が並べられていた。食事をしながら、私は思った。今の私って、要は高級エスコートみたいなものだ。ただし、提供するサービスが……他のことじゃなくて、彼女役を演じることだというだけで。
その考えに、気分がさらに重くなった。
「このリゾット、美味しい」私は沈黙を破ろうとした。
「無理に会話する必要はない」涼真は言った。「これはデートじゃない」
そう、これはデートじゃない。私は自分に言い聞かせた――これはビジネス取引だ。
夕食後、涼真はまた姿を消した。私はあてもなく家の中をうろつき、スマートホームシステムが本当に賢いことに気づいた。照明は自動で調整され、音響システムは私の音楽の好みを把握している。そしてコーヒーメーカーでさえ……。
待って。
コーヒーメーカーが、私が好む濃さにぴったり設定されている。スタジオのコーヒーが薄いって、いつも文句を言っていたのを思い出した。
「これって偶然?」私は独りごちた。
他にも細かいことがあった。客室の枕は私の好きな硬さだったし、シャワージェルは私が使っているブランドのものだった。それに、ネットフリックスのアカウントには、私がよく観る映画が保存されていた。
「一体、彼は私のことをどこまで知っているの?」
深夜、携帯の充電器を探しているうちに、私は誤って三階の一室に入ってしまった。
窓から月明かりが差し込み、そこが涼真の書斎だとわかった。壁には巨大なピンボードがあり、写真で埋め尽くされていた。
近づいてみて、心臓が止まりそうになった。
その写真……全部、私だった。
監視カメラのスクリーンショットでも、公式のスチール写真でもない。スタジオで仕事をしている私の、何気ない瞬間の写真。コーヒーブレイク中に台本を読む私、昼食時に真矢と談笑する私、打ち上げで三日月みたいに目を細めて笑う私……。
撮られた記憶さえない写真もあった。
「これって、どういうこと?」複雑な感情が胸に渦巻く中、私はその写真たちを凝視した。
ストーカー? それとも……。
階段を上る足音がした。
私はパニックになって書斎から逃げ出した。心臓が雷のように激しく鳴っていた。
客室のドアを閉め、ドアに背を預けて息を切らした。
あの写真はいったい何を意味するの? どうして涼真は私の写真を集めているの? この偽りの恋人契約の裏には、本当は何が隠されているの?
真矢の言葉を思い出した。『君が初めてだ』。
これがただのビジネスなら、なぜ私が初めてなの?
これがただの火消しのためなら、なぜ彼は私のことをこんなに詳細に知っているの?
私はキングサイズのベッドに横たわり、天井を見つめた。
明日、このすべての真相を突き止めなければ。
でも今は、この黄金の鳥籠の中で横たわり、あの写真たちの裏にある物語を想像することしかできなかった……。
