第2章

葵視点

美咲がいた。陽介の、すぐ隣に。

私は馬鹿みたいに立ち尽くす。彼女が陽介に近寄り、何かを囁きかけるのを見ていた。彼は頷くと、トイレの方へ歩いていく。その時だった。彼女が、まっすぐに私を見つめたのは。

その笑みは、肌が粟立つほど不気味だった。

彼女はすべるようにこちらへやって来た。「葵。まさかこんなところでお会いするなんて思わなかったわ」

「陽介に誘われたの」自信があるように聞こえるよう、努めて言った。「もう潮時だって」

彼女は笑った。「潮時? 何の?」

「私たちのことを発表するの。あなたとの関係を終わらせるために」

「あら、お可愛そうに」彼女は一歩近づいてくる。近すぎる。「陽介との関係を終わらせる気なんて、私にはないわよ」

その言葉は、まるで殴られたかのような衝撃だった。「何ですって?」

「聞こえたでしょ」彼女の目は氷のように冷たかった。「婚約は、このまま続けるわ」

嘘よ。嘘に決まってる。しぬ!

「陽介は私を愛してる」ああ、なんて惨めな響きだろう。「三年間も待ったのよ。約束が.......」

「陽介は口がうまいのよ」彼女は自分の爪を眺めながら言った。「でもね、あなたももうすぐ、邪魔じゃなくなるわ」

心臓が早鐘を打ち始める。「どういう意味よ?」

「いずれ分かるわ」彼女は首を傾げ、私を品定めするように見つめる。「今夜を楽しんでおきなさい、葵。お姫様ごっこができるのも、これが最後かもしれないから」

そして彼女は、ただ歩き去っていった。震えながら立ち尽くす私を残して。

『どういう意味? 私が何か見落としているの?』

陽介が戻ってきた。私は彼の顔に何かを探した。何を探していたのかは分からない。これがすべて間違いだという、何らかのしるしを。でも、彼の表情はいつも通り。ハンサムだった。

「準備はいいかい?」彼は腕を差し出した。

「何の?」

「会わせたい人がいるんだ」

彼に導かれるまま、窓際に立つ男性のところへ向かう。背が高く、黒髪で、鋭い灰色の瞳をしていた。

「葵」陽介が言った。「本田真一さんだ。本田産業のCEOだよ」

「本田さん」陽介は続けた。私は息をのんだ。「葵を紹介します。俺の、婚約者です」

彼は言ってくれた。

幸福感で爆発してしまいそうだった。三年間も隠れ続けた後で、彼が公の場で、私のことを認めてくれた。

だが、本田さんの表情は訝しげだった。彼は私と握手を交わすと、陽介にこんな視線を向けた。

「婚約者?」本田さんの声は慎重だった。「田中美咲さんではなかったかな。三年前の婚約発表は」

私の背中に回された陽介の手に力がこもる。「葵とは長い付き合いでして。美咲の件は、まあ、ビジネスです」

本田さんは乾いた笑い声を漏らした。「なるほど。では、どちらの婚約を真に受ければよろしいのかな?」

「葵が、俺の本当の婚約者です」陽介はきっぱりと言った。「俺の私生活が関わるビジネスには、彼女も含まれます」

嬉しくて叫び出してしまいそうだった。私の夢が、現実になったのだ。

本田さんは私たち二人をじっと見つめ、やがて頷いた。「よろしいでしょう、中村さん。土地の取引、進めましょう」

「ありがとうございます。いつ最終決定を?」

「例の、小さな条件をご存知でしょう」本田さんの笑みは友好的には見えなかった。「あなたの……複雑な状況を鑑みて、誠意の証明をしてもらいたい」

「証明、ですか?」

「来月、週末に合宿を開きます。私と妻が主催する、夫婦同伴限定のものです。チームビルディングや、信頼関係を築くためのエクササイズなどを行います」彼は言葉を切った。「我々の名物である、スカイダイビングも込みでね」

スカイダイビング?

「素晴らしいですね」陽介は即答した。「喜んで参加させていただきます」

「それは結構」本田さんの笑みが深くなる。「ここの崖は壮観ですよ。海まで60メートルの断崖絶壁。本物のアドレナリンラッシュが味わえます」

顔から血の気が引いていく。スカイダイビング?

「すみません」私の声は震えていた。「今、スカイダイビングと仰いましたか?」

「ええ」本田さんは答えた。「伝統なのですよ。奥さん方には全員参加していただきます。夫のビジネスを支える覚悟を示すためにね」

奥さん方には全員。

私は陽介を見た。彼が何か言ってくれるのを待っていた。

「安全だよ」陽介は私を見ずに言った。「プロのインストラクターもいるし、安全装備も万全だ。何もかも揃ってる」

「でも」私は囁いた。「私、できない.......」

「後で話そう」彼は私の肘を掴んだ。愛情深い仕草に見えて、その感触は警告のようだった。

本田さんが私たちを見ていた。「何か問題でも?」

「いえ、何も」陽介は答えた。「葵も楽しみにしています。なあ、葵?」

『楽しみ。そうね』

二人はビジネスの話を続けたが、私には何も聞こえなかった。頭の中では、一つの恐ろしい考えがぐるぐると回っていた。美咲は正しかった。私は、もうすぐ理解することになるのだ。

車の中で、私はついに爆発した。

「一体何だったの!?」

「何って?」

「スカイダイビングのことよ!」

「チームビルディングだ。ビジネスマンの妻なら、ああいうこともやるものさ」

「ビジネスマンの奥様は、心臓に持病なんてないわ!」

陽介が凍り付いた。「何?」

「私の心臓病のことよ! 十五の時からの不整脈! だから過激なスポーツができないって言ったじゃない!」私の声はどんどん大きくなる。もうどうでもよかった。「大学の時から知ってたはずでしょ!」

彼の顔が真っ白になった。「葵、俺は.......」

「あなたは知ってた! 彼がどんな条件を出してくるか知ってたのよ! だから私をここに連れてきた!」すべてが繋がり、吐き気がした。「これが私を殺しかねないって、分かってたんでしょ!」

「医者は管理可能だって言ったじゃないか!」

「薬を飲んで、ストレスを避ければの話でしょ! 崖から飛び降りるなんて、その真逆じゃない!」私はもう、全身が震えていた。

陽介は髪をかきむしった。

「美咲はできないんだ」と彼が言った。

「何ですって?」

「美咲は高所恐怖症なんだ。二階のバルコニーにすら出られない」彼は必死な様子で私を見た。「本田さんは奥様の参加を望んでいる。もしそれができなければ、俺はキャリア最大の契約を失うことになるんだ」

「だから代わりに私を選んだのね」私は囁いた。「私が、使い捨てだから」

「そんなこと.......」

「まさしくそういうことでしょ!」私はもう叫んでいた。「私をここに連れてきて、婚約者だって言って、信じさせて、全部、私を崖から突き落とすためだったんでしょう!このくそ野郎!」

「葵、頼むから!」

「いつから知ってたの? いつから、この計画を立ててたの?」

彼は答えなかった。その必要もなかった。

三年間。彼が私を愛していると信じていた三年間。待ち続けた三年間。そして私は、彼の本当の婚約者が役目を果たせない時のための、ただの代役に過ぎなかったのだ。

「私に近寄らないで」

「葵、説明させてくれ」

「私に触らないで!」

車から降りて、この息の詰まる場所から逃げ出したかった。だが、陽介はドアのロックを解除しようとしない。彼は完全に豹変し、冷たく言い放った。「葵、たかが一回飛ぶだけだ。何も起こりはしない。君は行かなければならない。君のお父さんは今、うちの一家と共同で仕事をしている。この時期に、君が三年間も俺の愛人だったなんてスキャンダルが表沙汰になったら困るだろう? お父さんももういい歳なんだ」

私は助手席で凍り付いた。この三年間、自分の立場が不名誉なものであることは重々承知していた。それでも彼はこの要求を突きつけてくる。命を落とすかもしれないと分かっていながら、父の名誉を盾に、私に飛べと脅迫するのだ。

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