第2章
前世の私は、この後すぐに死んだ。
居酒屋で屈辱を味わわされた後、月城柊はしばらく藤井絵と会っていなかった。私の誕生日までは。
彼はわざわざ休みを取り、忘れられない誕生日にすると約束してくれた。どこにも行かず、一日中そばにいると。
私は腕によりをかけてディナーを用意し、彼が一番好きだと言っていた白いワンピースを着て、バースデーケーキまで買った。
藤井絵から電話がかかってきたのは、夜七時のことだった。
月城柊の顔色が一瞬で変わる。慌てて電話に出た。
「絵? どうしたんだ?」
電話の向こうから、藤井絵の震える泣き声が聞こえてくる。
「柊君……怖い……外で雷が鳴ってるの……」
「怖がらなくていい。すぐに行くから」
月城柊はそう言って立ち上がり、行こうとする。
「柊……」
私は彼の袖を掴んだ。
「今日は私の誕生日なの。一緒にいてくれるって約束したじゃない」
彼は足を止め、苛立ちを滲ませた目で私を見た。
「桐原凛、君が藤井絵と同じ経験をしていたら、そんな軽々しいことは言えないはずだ。彼女は今、俺を必要としているんだ」
「じゃあ私は? 私はあなたを必要としていないとでも?」
「君は正常な人間だ」
彼は振り返りもせずに言い放った。
「彼女は違う」
ドアがバタンと閉められ、私は一人、食卓の前に取り残された。心を込めて準備したキャンドルディナーを見つめながら。
三時間後、雨は土砂降りになっていた。
家のドアが乱暴に蹴破られ、見知らぬ男たちが数人、雪崩れ込んできた。
「こいつだ!」
先頭の男が私を指差し、その目に悪意の光を宿す。
私はすぐに寝室へ駆け込み、内側から鍵をかけた。震える手で警察に通報しようとする。
カチャリ——。
ドアの鍵が、外から開けられた。
彼らは、私の家の鍵を持っている!
絶望の中、私は月城柊に電話をかけた。
「もしもし?」
彼の声は不機嫌で、背景には雨音が聞こえる。
「柊! 助けて! 誰かが家に侵入してきたの! 彼らは……」
「少しは物分かりが良くなれないのか?」
彼は私の言葉を遮った。
「絵が雷を怖がってる。こっちを離れられないんだ。何か用なら明日にしてくれ」
「違う! 柊、本当に危ないの! お願いだから……」
電話が奪われ、一方的に切られた。
その瞬間、私の心は完全に死んだ。
私は絶望して目を閉じ、心の中で誓った。
もし来世があるなら、必ず彼らから離れよう、と。
意識が薄れる中、私の魂はふわりと浮かび上がり、藤井絵の家へと漂っていった。
彼女はソファに座り、テレビでホラー映画を観ながら、月城柊の腕に固くしがみついていた。
「もう行っちゃうの?」
彼女はか弱そうに尋ねる。
月城柊は携帯を置くと、彼女のために音量を下げ、毛布をかけてやった。
「君が眠るまでいるよ」
藤井絵は突然彼のシャツを掴み、顔を寄せてキスをした。
月城柊は彼女を押し返す。その口調にはどこか不快感が滲んでいた。
「絵、俺は結婚してるんだ」
藤井絵は涙を流し、悲しげに言った。
「あの時、彼女が指輪を失くさなければ、私が酷い目に遭うことなんてなかったのに」
月城柊は沈黙した。
「彼女の代わりに、私に償うって言ったじゃない」
「最後の線を越えない限り、他のことは何でもしてくれるって、あなた自身が言ったことでしょう?」
月城柊の表情が葛藤から妥協へと変わっていくのを、私は見ていた。彼は藤井絵がキスするのも、体を撫で回すのも、されるがままになっている。やがて、応え始めた。
彼はそっと彼女の腰を抱き、倒れないように支える。
その動きはあまりにも手慣れていて、まるで幾千回も練習したかのようだった。
次第に彼も情が移り、藤井絵の頭を押さえつけて、そのキスを深めていく。
なるほど、これが彼の言う『病人の看病』か。
彼らは最後の線は越えなかった。藤井絵が彼の服を脱がせようとした時、彼はふと我に返り、彼女の手を制した。
「ちょっと電話してくる」
月城柊はそう言って立ち上がった。
もちろん、電話は繋がらない。彼の顔はどんどん険しくなり、藤井絵に何か言いたげな視線を向けた。
「雷はもう止んだみたいだけど……」
「でも、怖いんだもの」
藤井絵は言った。
月城柊はそれでも彼女のそばにいることを選び、深夜、彼が寝入るまで付き添った。
藤井絵は忍び足で起き上がると、電話を手に取った。
「用は済んだ?」
「何? 死んだ?」
「犯して、動画で脅せばいいって言っただけじゃない! なんで人殺しなんてことになってるのよ!」
「私も馬鹿だった。あんたたちなんか信じるんじゃなかった! あの時だって、ただ私を襲うフリをしてくれればよかったのに、まさか本当に……」
「早く鍵を処分して、逃げなさい!」
私の魂は震えていた。
すべてが嘘だったのだ!
彼女の被害は自作自演で、それどころか、私を襲うために人を寄越していたなんて……。
私の死後、藤井絵はよほど後ろめたかったのだろう。すぐに海外行きの飛行機のチケットを手配した。しかし、搭乗しようとしたその時、彼女は警官に囲まれた。
「藤井絵さん、あなたは殺人容疑で逮捕します。ご同行願います」
彼女は顔面蒼白になった。
「ありえない!」
「通報があったんですよ」
と警官は言った。
私は彼女の後ろに漂い、通報者が誰なのか必死に確かめようとしたが、遠くに立つ長身の影しか見えなかった。
彼の顔は見えない。
藤井絵が逮捕されたことで、私の怨念が晴れたのだろうか。意識が次第に薄れていく。
そして、すべてが暗闇に帰した。
私が再び目を開けた時、迎えてくれたのは、あの熱々の味噌汁だった。
