第1章

「夏目さん――頭の中のこれ、場所がよくありません。手術の難易度が高い。それに、保存療法でも手術でも……いまお腹にいる赤ちゃんは、残念ですが残せません。できればご家族も一緒に、もう一度いらしてください」

医師の言葉は、鈍い鉄槌みたいに胸の奥を叩き潰した。まるでこれからの人生に先回りして、死の烙印を押されたかのように。

手にした検査結果を見つめながら、夏目南は、泣けばいいのか笑えばいいのか分からなくなる。

――やっと、妊娠できたのに。

――その瞬間に、脳腫瘍だなんて。

平らな下腹にそっと触れる。来るはずのなかった命が、唐突にそこにいる。

脳腫瘍……?

ぽたり。ようやく一粒の涙が目尻から落ちた。

母も脳腫瘍だった。誰にも弱さを見せたくない人で、痛みが襲ってきた夜、睡眠薬を一瓶まるごと飲んだ。死で、最後の体面を守ったのだ。

――じゃあ、私は?

医師の前で、震える声で尋ねた。あと、どれくらい生きられますか、と。

医師は小さくため息をつき、静かに告げる。

「妊娠と治療は両立できません。どうしてもお子さんを残すなら……三か月が限界です。夏目さん、ご家族を連れてきてください。決断のときです」

三か月。

以前なら、三か月なんて長いと思っただろう。けれど今は短すぎた。お腹の子が育ちきるには足りない。自分の“その後”を整えるにも、足りない。

じわり、と頭が疼く。夏目南は待合の長椅子に腰を下ろし、スマホの画面を点けては消し、消しては点けた。

周防律は、仕事中に連絡されるのを嫌う。

それでも――病気は、さすがに“大事”じゃないの?

発信ボタンを押す前に、着信が鳴った。営業部の佐藤だ。

「夏目様! ヒロトグループの大崎様、会議室でもう1時間待ってます! 今日は戦略調達契約の最終サインで……戻れますか?」

焦りが声に滲んでいた。

夏目南は崩れそうな心を押し込め、平静を装って聞く。

「周防様は? 今日サインだって分かってたよね。どうして大崎様をそんなに待たせるの?」

「……周防様、今日は会社に来てません」

来てない?

病院へ向かう前、周防律は「仕事が忙しい」と言った。会社にも行っていないなら、どこへ――。

すぐに電話をかける。出たのは、距離のある冷たい声。

「……用?」

夏目南は必死に明るい声を作った。

「いま、どこにいるの?」

「俺がどこにいるか、お前に報告しないといけないのか?」

その瞬間、通話口に空港アナウンスが流れ込んだ。

『お迎えのお客様にご案内いたします。7765便はただいま到着いたしました。到着ロビーにてお待ちください――』

夏目南の胸の奥がきしむ。

「空港? 大崎様が契約に来てる。昨日、言ったよね」

苛立ちが抑えきれず、声が硬くなる。あの契約がどれほど重要か、周防律が知らないはずがない。なのに顧客を放置して、空港で誰を迎えている?

「契約は後でいい。こっちは用がある。帰ってから話す」

周防律の声は露骨に不機嫌だった。

「そんな大事な契約を――」

言い終える前に、ツーツー……と無情な通話終了音。

強引で、独裁的で。――いつもの周防律。

夏目南はすぐにアシスタントへメッセージを送った。

『何があっても大崎様をつなぎ止めて。今すぐ戻る。30分で着く』

返信は速かった。

『夏目様……もう急がなくて大丈夫です。大崎様、帰られました』

夏目南は大崎の番号へ何度もかけた。だが、すべて拒否。

――本気で怒らせた。

スマホを見つめたまま、夏目南は怒りで笑いそうになった。

何がそんなに大事で、数千万規模の案件を放って空港まで行ったのか。

そう思った矢先、ニュース通知が目に入った。周防律が映っている。

空港で抱き合う15秒の動画。金融ニュースの見出しにまで上がっていた。

周防律の腕の中には、波打つ長い髪を肩に流した背の高い女。身体のラインはしなやかで、顔がはっきり見えなくても美人だと分かる。

……顔を見るまでもない。

その女を、夏目南はよく知っている。

周防律の高嶺の花。大学時代から卒業まで甘い恋愛を続け、周囲の誰もが卒業したら結婚すると信じていた。――あの“変数”が現れるまでは。

その変数が、夏目南だった。

夏目南は深く息を吐く。

周防律は、夏目南が彼の人生を壊したと決めつけている。

じゃあ、私の人生は?

三年間の秘密婚。

最高研究機関のオファーも、海外研修のチャンスも、好きだった仕事さえも――手放した。

なのに周防律は、それを“当たり前”として受け取り、彼女が最初から何も借りていないことを、忘れたふりをする。

腹に触れた瞬間、夏目南の頭の中が冷たく冴えた。

――この子は、歓迎されていない。

検査結果の紙を二枚、きっちり折りたたんでバッグに入れる。

父親である周防律には知る権利がある。

話さなければならない。ちゃんと。

周防律が帰宅したのは深夜だった。

初めて、鍵の音がしても夏目南は迎えに行かなかった。

扉を開けた周防律は濃い酒の匂いをまとい、乱暴にネクタイを外してベッドの端へ放り投げた。目つきは苛立ちで荒れている。

「まだ寝てないのか」

夏目南は眉をひそめる。

「ずっと待ってた」

返ってきたのは、心底どうでもよさそうな薄笑い。

「お前って、そういう“自分に酔う行動”好きだよな」

「話があるの」夏目南は耐えるように言った。「ケンカしたくない」

周防律はネクタイを緩め、上着も投げ捨てる。口元に嘲り。

「お前、子どもが欲しいだけだろ。ロボットみたいに毎日タイミング計算して、俺を呼び出してヤらせてさ。疲れないのか?」

夏目南は口を開いた。――でも、言葉が出なかった。

苦さが胸に広がる。

取引みたいな結婚で、本気になったほうが負けだ。

何度もそう言い聞かせてきたのに。

黙ったままの夏目南に、周防律は鼻で笑い、ぐい、と距離を詰めた。

押し倒され、唇が落ちてくる。

強い酒の匂い。硬く熱いものが身体を押し付けてくる。

その瞬間、夏目南は顔を背けて避けた。

周防律の目から酒気が少し引き、声が氷みたいに冷える。

「なに? 触らなきゃ子ども作れないだろ。子どもがなきゃ、お前は“周防奥様”の座にしがみつけない」

「……要らない」

夏目南は力なく言い、手で彼を押しのけた。

周防律はゆっくり起き上がり、目を細めて笑った。

「夏目南、言ったな。あとで爺さんに聞かれても、俺が協力しなかったとか言うなよ?」

夏目南は乱れた寝間着を整え、いつもの我慢強さを捨てた。

「周防律。空港にいた理由、説明して。何千万の契約を放り出してまで迎えに行くほど大事な相手って誰?」

周防律の顔には、バレた気まずさなんて欠片もない。

ネクタイを乱暴に引き抜き、薄く嗤う。目は冷え切ったまま。

「嫉妬? お前にそんな資格ある?」

「仕事の話をしてるの」夏目南は引かない。

周防律は馬鹿にしたように笑う。

「お前、本気で自分を周防奥様だと思ってるのか? 会社のことにそんな必死でさ」

夏目南は眉を寄せた。話が通じない。

「じゃあ、どうしろって言うの?」

公表していないだけで、結婚は結婚だ。

周防律は腰をかがめ、上から見下ろす。

「三年前、お前の家族が揃ってお前を俺のベッドに“差し出した”時点で分かってただろ。お前は俺のところで、永遠に周防奥様にはなれない」

その一言が、心臓を針で抉ったみたいに痛い。

三年前。

周防律の中では、あの出来事は一度も終わっていなかった。

でも、縛られていたのは彼だけじゃない。

夏目南は目を閉じる。そこにいるのは、どうしようもなく孤独な自分だ。関係を修復しようと必死だったのに、周防律は凍りついた距離で突き放し続けた。

「夏目南、子どもをやれば、俺を解放してくれるのか?」

周防律がまた覆いかぶさってくる。両手首を掴まれ、動けない。

夏目南の中で、何かが弾けた。

触底したバネが跳ね返るように。

彼女は全身の力を込めて、脚を振り上げ――周防律の股間へ、容赦なく蹴り込んだ。

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