第3章
決心を固めた途端、夏目南はその夜、驚くほど穏やかに眠れた。
目が覚めると、周防律の姿はない。江村茜もいない。
家政婦が言うには、二人は一緒に朝食をとって出て行ったらしい。
一緒だったかどうかなんて、もうどうでもよかった。
夏目南はドレッサーの前に座り、丁寧に化粧を施す。青白い顔色だけを、きれいに塗りつぶしていく。
これなら――たぶん、体の異変は見えない。
着信音。画面に出た名前は早坂だった。
「夏目さん、離婚協議書、送ってあります。内容を確認してください」
受話器の向こうの声は、事務的で淡々としている。
夏目南はファイルを受け取り、ざっと目を通しただけで、電子署名を入れた。
「印刷して、周防グループに郵送して」
離婚協議書、たった一枚。
これで、たぶん二人とも解放される。疲れ切っていた。正しいか間違いかなんて、もういい。会わなければ争いも減る。
周防律にとっては、さぞ嬉しい「大盤振る舞い」だろう。
夏目南はもう一度、病院へ向かった。
出てきた手には薬が二種類。ひとつは妊娠を終わらせる薬。もうひとつは腫瘍の進行を抑える薬。
医師の宣告は、実質的な最後通牒だった。
脳腫瘍が神経を圧迫している。このままでは命に関わる。手術は避けられない。だが麻酔も放射線も胎児には致命的で、仮に生き延びても重い障害の可能性が高い――つまり、助けられない。
震える指先で、「流産手術 説明同意書」を見つめる。
これほど重い紙に、彼女は今まで出会ったことがなかった。
その頃、周防グループ社長室。
秘書のエミはフロントから届いた宅配便を仕分けしていた。早坂法律事務所のロゴが入った封筒を見つけ、何気なく開ける。中身を確認した瞬間、顔色がすっと冷えた。
「……離婚協議書?」
エミは鼻で笑い、視線を少し先へ投げる。そこでは江村茜が、俯いたままスケジュールを修正していた。
このところ、江村茜がどれだけ周防律の前で「健気」に振る舞っているか。エミは嫌というほど知っている。
今この書類が周防律の手に渡れば――
疑り深い彼は、最近の変化をすべて夏目南のせいにする。下手をすれば、罪悪感で結婚を見直すかもしれない。
江村が上に立ちたいなら、これは邪魔だ。
永遠に、消えていたほうがいい。
エミの目に計算が走る。封筒をそっと、社長室外の書類棚いちばん下――古い税務書類の束のさらに奥へ押し込んだ。
何事もなかったように、仕分けた書類を整え直す。
最初から存在しなかったかのように。
夏目南は、その「贈り物」が握り潰されたことを知らない。
スマホを見つめ、胸の奥に溜まる疲労だけを感じていた。悲しくないと言えば嘘になる。けれど、泣いている時間はない。
いつ終わるか分からないのなら、終わる前に片づけるべきものがある。
会社へ向かう途中、ハンドルを切って西郊の療養院へ車を走らせた。
お爺さんに会う前に、院長室を訪ねる。
「5年分の入所費用です。先に預けます。それから、基金も組みました。毎年一定の入金が入るようにしています。お爺さんのこと、お願いします」
差し出された小切手に、院長はすぐ笑顔になった。
「夏目さん、ご安心ください。おお爺さんさまは専任でお世話しております。問題は起きません」
夏目南は頷く。
「ありがとうございます、小村院長。もしお爺さんに何かあって、私と連絡がつかない場合は……こちらへ」
予備の連絡先が書かれたカードを渡す。
もう一枚、バッグの中の名刺に指が触れた――が、結局出さなかった。
綾人が手を差し伸べるかどうかは、分からない。
お爺さんの部屋に入ると、老人はぱっと顔を上げ、手を振った。
「桑子、来たか? ずいぶん顔を見せなかったなぁ」
鼻の奥がつんと痛んだ。夏目南は顔を背け、弱さを見せないように笑う。
「お爺さん、私、南だよ」
お爺さんは眉を寄せる。
「……南か。いやぁ、物忘れがひどくてな。最近、ずいぶん痩せたなぁ。顔色も悪いじゃないか」
「平気。ちゃんと食べて、ちゃんと寝てるよ」
夏目南は明るく言って、車いすの取っ手に手を添えた。
「今日は暖かいし、お日さま浴びに行こう。私が押すね」
お爺さんはしばらく黙り込み、ふと、遠い目をして尋ねた。
「南……桑子は? 最近来ないなぁ。治美はどこへ連れてった? 会いたいよ」
涙が、勝手に溢れた。
お爺さんは少しずつ忘れていく。夏目桑子――双子の姉が、三年前にもうこの世を去っていることを。
泣き出した夏目南を見て、お爺さんはあたふたと手を動かす。
「泣くな泣くな……ええと、飴はどこだ? 飴やるから、泣くな」
夏目南は泣き笑いになった。
「泣いてないよ。砂が入っただけ」
そして、できる限りいつも通りの声で続ける。
「お爺さん、近いうちに遠くへ行くの。ここでいい子にしててね」
「いつ帰ってくる?」
しわだらけの顔に、期待が滲む。
帰ってくる――?
帰れるのだろうか。
夏目南は喉の奥の痛みを押し殺し、笑って言った。
「ちょっと長くなるかも。でも大丈夫。お爺さんと治美のこと、ちゃんと手配しておくから」
療養院を出ると、夏目南はある会社の前まで車を走らせた。
入口の外で立ち尽くし、足が出ない。
そこへ、甘ったるい声が耳に飛び込んできた。
「約束したんだから反故はナシね。今夜、あなたは私のものだから」
ぴったりしたワンピースの女が、腰を揺らしながら出てくる。
「分かったよ。退勤したら行く」
続いて、低く艶のある男の声。
――懐かしい。
目を閉じたって分かる。甘やかす笑い方。口角の上がる角度まで。
女を抱くようにして出てきた男は、夏目南を見つけた。
その笑みが、ぴたりと固まる。視線がぶつかった瞬間、整った眉が寄った。
「綾人、どうしたの? 知り合い?」
女の声に不快感が混じり、警戒の目が夏目南を刺す。
夏目南は口を開いた。けれど、声が出ない。
綾人は一瞬の動揺を飲み込み、淡々と言った。
「……あまり親しくない。友だちとも言えないな」
その言葉が棘になって、胸の奥へ深く刺さった。
女は唇を尖らせ、甘い声のまま釘を刺す。
「昔の知り合いならいいけど、新しい女とか、元カノとかは嫌よ?」
綾人は女の唇に深いキスを落とす。
「悦子、俺がいつ嘘ついた?」
夏目南は、彼に抱かれている女を一瞬だけ見た。
豊川悦子。豊川グループの一人娘で、唯一の後継者。父の豊川守太郎は通信技術の中核ソフトで成り上がり、今では仿生技術の領域にまで手を伸ばしている。三年以内に最も賢い仿生ロボットを作る――そう豪語する、業界の目立つ存在だ。
意識を戻し、夏目南は破綻のない笑みを貼りつけた。
「綾人。少し話せる?」
綾人は露骨に面倒そうな顔をする。
「何を話すことがある?」
豊川悦子は面白がるように夏目南を値踏みし、軽蔑を滲ませた。
「綾人、古い知り合いなら言い方きつすぎ。私が聞いちゃまずいなら、先に行く?」
綾人は去ろうとした豊川悦子を乱暴に引き戻し、頭頂に軽くキスを落とす。
視線だけを夏目南へ向けた。
「別にまずくない。俺と君の間に秘密はない。用があるなら早く言え。ないなら帰れ」
夏目南は小さく笑った。
「……場所、変えて、ちゃんと話せない?」
綾人は豊川悦子の肩を抱いたまま、横目で見下ろす。
「だから話すことはないって言ってる。それに俺は忙しい。お前みたいなのに時間を使うのは無駄だ。用件だけ言え」
「もう、そんな言い方しないの」
豊川悦子が甘くたしなめる。
夏目南は屈辱を喉の奥へ押し込み、顔を上げた。
淡い笑みだけ残して。
「そう。あなたはいま夏目グループのCEOだもんね。私みたいな小物が時間をもらえる立場じゃない。でも――最近、技術の件で行き詰まってる。違う?」
綾人が興味深そうに眉を上げる。
「それで?」
夏目南は息を吸い、ゆっくりと言った。
「私が解決できると言ったら……将来、お爺さんに何かあったとき、手を貸してくれる?」
綾人は鼻で笑った。
「お爺さん? 俺が? 夏目南――お前、死ぬのか?」
