第4章

綾人は結局、夏目南をオフィスへ通した。

煙草を一本取り出すと、彼は床まで届く窓の前に立ち、ぞんざいにライターを弾いた。深く吸い込み、ゆっくりと煙を吐く。ふわりと輪になった白が空中にほどけていくのを見届けてから、胸の奥のざわめきを押し殺し、振り返った。

「お前が俺にくれる見返りって、それだけか。技術の問題を片づける、それだけ?」

言い終わるより早く、綾人が距離を詰めた。

淡い煙草の匂いが、逃げ道みたいに空気を埋める。夏目南が一歩退けば、綾人も一歩。二歩退けば、二歩。追い立てるように迫り、ついに背中がデスクに当たった。

赤裸々で、冷たい目。

夏目南の知らない視線だった。

「ほかにもあるなら、考えてやる」

低い声に熱はない。

「頼め。俺にすがれ。間違ってたって言え。……まだ俺が好きだって言え」

そんな言葉が、この男の口から出るなんて。

かつての温もりが、ぱきりと音を立てて砕け散った気がした。目の前の綾人は、知らない誰かみたいで――怖い。

夏目南は力いっぱい押し返し、素早く距離を取る。腕を前に構え、警戒の目で彼を見る。

昔は誓い合った。世界を敵に回してもいいと思えた。

昔の綾人は、彼女のためなら命さえ惜しまなかった。

それなのに今は、彼女の対岸に立ち、肌を刺すような危うさをまとっている。

……来るべきじゃなかったのかもしれない。

「綾人、ごめん——」

声が、喉の奥で酸っぱくなる。

もし望むのが頭を下げることなら。

お爺さんと治美のために、それくらい――。

「情に訴えるな」

綾人は顔を背け、夏目南の落ちた表情を見ようとしない。

「俺たちの繋がりは三年前に全部終わった。お前をここに立たせてるだけで限界だ。夏目南、底線を踏むな」

警告だった。

夏目南は息を整える。沈んだ気持ちを、胸の奥へ押し込めた。

戻らないと決めたのは自分だ。いまさら旧情に縋る資格なんてない。

「綾人様。今日は取引に来ました」

必死に声を平らにする。

「御社は今、技術の問題が解けないままシステム更新が止まっている。……その件、私なら解決できます」

綾人の目が細くなる。

「続きを言え」

「続きを?」夏目南は眉を寄せた。「何の……」

綾人はまた一歩、また一歩。夏目南は後ろへ追いやられ、ひやりと冷たい壁に背が当たった。逃げ場はない。

綾人が吐いた煙が、ふわりと彼女の頬にかかる。

ほとんど触れそうな距離で、氷みたいな声が落ちる。

「技術の問題ひとつで、俺が条件を飲むと思うなよ。自分の技術がそんなに高く売れるとでも? 天才少女の「光輪」が、まだ頭の上にあるつもりか」

鼻で笑う気配。

「三年も腐らせたお前は、いま何者でもない」

けれど、その言葉は夏目南の背筋を折らなかった。

むしろ――目の奥に、熱が戻る。

「御社のコード、まだ数年前のまま。だから、作ってるスマートロボットのチップも時代遅れです」

夏目南は落ち着いた声で言い切る。

「私は三年空いても取り戻せる。でも御社が「昔の貯金」にしがみついて更新しないなら……あと三年で市場から弾き出されます」

綾人が「ふん」と冷笑し、手元の煙草を彼女の脇の灰皿に押しつけた。じゅっ、と湿った音。

「どうやって、危言耸聴じゃないって証明する?」

夏目南は生まれつきの気位を隠さない。

「危言耸聴かどうか、あなたが一番分かってる。この取引、あなたに損はない」

綾人は両手を広げ、眉を上げた。唇の端がゆっくり吊り上がる。

「相変わらず自信だけは一人前だな。だが残念。お前の技術なんて要らない」

笑いは奔放で、目だけが冷たい。

「今の俺には豊川グループがついてる。俺が技術に困ると思うか?」

夏目南は視線を逸らさない。

「豊川グループで解決できるなら、今も更新できないはずがない」

綾人の目に、露骨な侮蔑。

「それはお前が気にすることじゃない。考えるのはそこじゃねえだろ。俺が拾わなきゃ、お前は次、誰に縋る?」

夏目南は一歩も引かない。

「綾人様。お爺さんが昔いろいろしたのは分かってます。でもあなたは、あの人に育てられたでしょう」

綾人の表情が硬くなる。

「……二度とその話をするな」

声が切れる。

「今ああなってるのは報いだ。自業自得。活かしておく価値なんてない」

夏目南の胸の奥が、すうっと冷えた。

「あなたが、ここまで冷たい人だなんて思わなかった」

綾人も退かない。

「知ったなら二度と来るな。帰れ。……慢走不送だ」

綾人の会社を出た瞬間、夏目南は足を止めた。

頭が、真っ白だった。

預けられると思っていた。

なのに三年前の出来事は、綾人の中にここまで濃い憎しみを残していた。

……誰なら信じられる?

周防律――?

その名が浮かんだ途端、スマホが震えた。画面に表示されたのは、まさに周防律。

夏目南は小さく息を吸い、崩れた心を縫い合わせるみたいに声を整える。

「もしもし——」

だが、言い切る前に飛んできたのは、刺々しい声だった。

「夏目南、どこだ。会社が大変なのに、何も言わず来ないってどういうつもりだ。会社はお前の家じゃない」

その声を聞いた瞬間、逆に頭が冴えた。

「周防様——病欠、出しました」

「病欠でも時と場合があるだろ」

周防律は強硬に続ける。

「大崎様の案件、まだ決まってない。お前、営業マネージャーの立場分かってるのか?」

夏目南は笑いそうになって、喉の奥で笑いが冷たく固まった。

「それ、私が聞きたい。昨日、段取りは全部整えた。あとはあなたが会社に出て最終調整するだけだった」

声が硬くなる。

「大崎様は午前中ずっと待ってた。会社を軽く見てるのは、どっち?」

周防律の声がさらに冷える。

「この案件はお前が追ってた。問題が出たら言い訳するな。早く病気になって遅く病気になるならまだしも、こんな大事なときに病気になるな」

夏目南は呆れて、乾いた笑いが漏れた。

「病気に日取りを選べって?」

「くだらない」

苛立ちが混じる。

「すぐ会社に来い。大崎様と時間を取り直せ。江村茜もいる。全員で話し直す」

江村茜。

その名前だけで胸が詰まる。妙にむかむかして、呼吸が浅くなる。

夏目南は返事をしなかった。

江村茜に能力がないとは言わない。スタンフォードに入るだけの経歴はある。

でも交渉は、綺麗な専門用語を並べれば終わるものじゃない。ヒロトグループが見るのは、製品とデータと実装だ。帰国したばかりの肩書じゃない。

「彼女がいるなら、彼女にやらせればいい」

夏目南の声は冷たかった。

周防律は拒否を許さない。

「大崎様の案件はお前が追ってた。だから電話してる。三十分で来い」

「すみません、用事がある。戻れません」

押しつけられるほど、反発が強くなる。彼女は昔から、そうだった。

「何が契約より大事なんだ」

周防律の声が脅しに変わる。

「この契約の意味は分かってるだろ。最後のチャンスだ。来ないなら、もう来るな」

夏目南は静かに言った。

「……じゃあ、正式に辞職します」

言い切って、ぶつりと通話を切った。

——いい。

これでいい。

もう、会う必要もない。

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