第6章
周防律の言葉は、疑いようもなく夏目南を――引き返せない、みっともない場所へ追い込んだ。
夏目南は周防律を見た。
その瞬間、腹の底で理解する。
彼は私が隠している「身分」を口にしたら、隣にいる江村茜が気まずくなるのを怖がっているのだ。
――じゃあ、会社の契約なんて。彼にとっては、その程度?
大崎様が改めて夏目南へ向けた視線には、さっきまで残っていた評価の色はもうない。声には露骨な嘲りが混じっていた。
「なるほどね、夏目様。私の案件のために、ずいぶんと苦心されているようだ」
そう言われても仕方ない。少なくとも彼は、面と向かって「嘘つき」と突きつけはしなかった。最後の一枚の体面だけは、残してくれたのだ。
夏目南は周防律を一度だけ見た。
彼は知らない。自分の手でまたひとつ、まとまりかけた商談を叩き落としたことを。
――まあいい。彼の隣には、スタンフォード卒の博士様がいる。ヒロトグループとの縁を、引き戻せるのなら。
「周防様が、私のことを『営業部の責任者にすぎない』とおっしゃるなら……私も、それ以上にはなれませんね」
夏目南は笑って言った。
策を尽くしても、最後は運。彼女はやることはやった。今日の言葉を、周防律が後悔しないといい。
それから大崎様へ顔を向ける。
「大崎様。『二十分钟』、まだいただけますか?」
案の定、大崎様は見下すように口元を歪めた。
「嘘を平気でつく相手に、二十分钟どころか二分钟だって無駄だよ」
夏目南の顔色が露骨に曇ったのを見て、周防律が半身だけ前へ出る。庇うように彼女を背中へ隠し、言った。
「大崎様、彼女のことで気分を害されないでください。契約の件は、江村茜が誰よりも専門です。あとで落ち着いて詰めましょう」
「晩餐会、始まる前からずいぶん賑やかだな」
横から、からかうような男の声が割り込んだ。
――最悪だ。
夏目南は目を閉じ、振り返りたくなくて唇を噛む。
避けていれば三年会わずに済んだ声。
それが今日に限って、二度もぶつかるなんて。
運がいいのか悪いのか、もう分からない。
だが大崎様は一瞬で顔色を変えた。
「おや。今日は豊川お嬢様が? もしや豊川様にもお目にかかれるのかな」
綾人が豊川悦子の細い腰を抱き、ゆっくりこちらへ歩いてくる。夏目南には、視線すら寄こさない。
豊川悦子は丁寧に微笑んだ。
「父は所用で。私が代理で参りました。大崎おじさん、お久しぶりです」
大崎様がさらに距離を詰めて愛想を振りまこうとした、その前に。綾人が口を挟む。周防律へ、作り物みたいな笑みを向けた。
「周防様。そちらの女性、紹介していただけませんか?」
江村茜が綾人に向けて笑う。
「紹介なんて要ります? 旧知の仲でしょう」
「へえ、知り合いでしたか」大崎様が面白がるように言った。
――江村茜。やはり、ただの人じゃない。
綾人が眉を上げる。
「知り合いなのは当然だ。ただ……江村さん、今日はどういう立場で?」
そして、思い出したように夏目南へ視線を流す。嘲笑を隠す気配もない。
「それとも夏目さんが説明する? 営業部のマネージャーが、どうやってここに紛れ込んだのか」
羞恥が、皮膚を剥がれるみたいに襲ってくる。
さっき周防律に否定されたときより、比べものにならない。
――服を剥ぎ取られて、裸のまま人前に立たされている。そんな感覚。
江村茜が笑って言った。
「綾人、相変わらず口が悪いわね。私は会社の技術代表、南は営業代表。一緒に来て何かおかしい?」
庇ってくれている。たぶん、そうだ。
でも夏目南の頭はもう働かない。頭痛が、波みたいに押し寄せてくる。チークじゃ隠せないほど顔色が抜け、手のひらがじっとり濡れ、体の芯が冷えていく。
「すみません……お手洗いに」
夏目南は逃げるように背を向けた。弱さを見せたくなかった。
周防律が眉を寄せる。顔色が明らかに悪い。自分の言葉が彼女を追い込むのは分かっていた。だが大局を考えれば、営業は技術に道を譲るべきだ。江村茜を変な立場に立たせるわけにはいかない。
契約が片付いたら、ちゃんと説明してやる。
――それにしても、最近の夏目南は少し気が荒い。
江村茜は気にした様子もなく周防律の腕を取り、豊川悦子へ話しかけた。
「豊川さんでいらっしゃいますよね。江村茜と申します。スタンフォードにいた頃、幸いにもお父さまの講演を拝聴しまして。大変勉強になりました」
豊川悦子が笑う。
「スタンフォード卒なんですね。父がいつも言ってます、あちらの技術者はトップクラスだって。連絡先、交換しません? 今度お茶でも」
「ぜひ」
江村茜はバッグからスマホを取り出し、豊川悦子と親しげに言葉を交わし始めた。
そして――豊川悦子の傍らにいる綾人は、夏目南が去った方向を見ていた。表情は読めない。
周防律は綾人を横目で一瞥する。
――俺の妻は、誰にでも狙われていい存在じゃない。
まして綾人になど。
冷たい水を顔に浴びて、ようやく意識が輪郭を取り戻した。痛みが鮮明で、頭を殴りたいほどだ。夏目南は震える手でバッグから鎮痛薬を取り出す。
病院で処方された薬。けれど、飲めずにいた。
小腹にそっと触れる。
まだ形になりきらない命。――自分の体が一番大事だと、何度も言い聞かせたのに。結局、何度も心が折れて、決断できない。
薬瓶を開け、錠剤を口へ。水も飲まずに飲み下した。
涙が、頬を伝って落ちた。
――もう、引き返せない。
それでいい。
望まれない子。愛のない家。おまけに短命な母親。そんな世界へ連れてくるより、連れてこないほうが――きっと、優しい。
洗面台に手をつき、外側の共用スペースへ出る。壁にもたれて呼吸を整えようとした、その背後から、穏やかな男の声がした。
「大丈夫ですか。お手伝いしましょうか」
夏目南は背を向けたまま手を振る。誰にも、弱いところを見せたくない。
だが――動きが大きすぎたのか。あるいは、他人の親切が最後の防壁を崩したのか。身体を起こした途端、視界がぐらりと反転した。
洗面台へ手を伸ばす。指先が滑る。
体が傾き、制御を失った。
「危ない」
痛みは来なかった。
柔らかな腕に受け止められた。鼻先をくすぐる、木質系の香水の匂い。
見上げると、どこかで見た顔がある。
「……夏目南?」
相手が先に名前を呼んだ。
夏目南ははっとして身体を離し、濡れた髪を慌てて撫でつける。少しでもみすぼらしく見えないように。
「あなたは……?」
男の瞳は深く、静かな潭みたいだった。
「忘れたとは言わせない。君が大学三年のとき、一緒にロボットコンテストに出たろ。優勝した。もう忘れたのか?」
「……朝日知也先輩?」
夏目南の目がわずかに明るくなる。学生の幼さは消え、仕立てのいいスーツを着た、落ち着いた大人の男になっている。すぐには結びつかなかった。
朝日知也が穏やかに笑う。
「覚えてくれててよかった。前に野村教授に君のことを聞いたんだ。今、どこで何を?」
夏目南は苦く笑った。
「……卒業してからは、周防グループで……営業を」
あの頃、一緒に徹夜でコードを書き、研究した仲間の前で。
「営業」という二文字が、こんなにも言いづらいなんて。
朝日知也は冗談を聞いたみたいに目を丸くする。
「は? 君が? うちの学部で一番の学生だぞ。三年で国際トップジャーナルに論文載せて、スタンフォードに飛び級で――国家研究所にいるって言われても驚かないのに、どうして……」
言葉が途中で止まった。夏目南の笑いが、苦く、逃げ場のないものだと気づいたからだ。
朝日知也は軽く咳払いをし、すぐに平静を取り戻す。
「野村教授とは、今も連絡を?」
夏目南は小さく首を振った。声が落ちる。
「……合わせる顔がありません」
朝日知也は口元を少し上げた。
「教授は何度も君の話をしてたよ。そうだ、一週間後にAI系の学術交流会がある。野村教授が発起人の一人だ。正式に招待したい。断らないでほしい」
学術交流会。
言葉だけが、遠い。
「私……不釣り合いです。今は、関連の仕事をしていませんし」
断ろうとすると、朝日知也がスマホを差し出した。
「一年のときに最高のコードを書いた人間だ。どこで何をしていようが、光は消えない。連絡先、交換しよう。後で招待状を送る」
「……はい。ありがとうございます、先輩」
夏目南は迷わずスマホを開き、連絡先を交換した。
朝日知也が心配そうに覗き込む。
「顔色が悪い。病院、付き添おうか?」
頭痛は薬のおかげで半分ほど引いていた。夏目南は首を振る。
「大丈夫です。先輩はお忙しいでしょうし、私はもう帰ります」
「送るよ」
「でも……先輩、晩餐会に来てるんじゃ……」
「名利の場なんて、元から来たくなかった」
朝日知也は淡々と言い、歩き出す。
「行こう。家まで送る」
