第1章 葬儀

「水上伊鶴! じいさんが生きてる間、あれだけ可愛がってたくせに……重い病気になったとき、お前はどこにいた! 水上家がどうしてお前みたいな出来損ないを養っちまったんだ!」

水上伊鶴は、水上家の祖父の墓碑の前に、表情ひとつ変えず立っていた。耳を打つのは、父・水上大地の怒号。

黒いワンピース。微動だにしない。視線の先は、墓碑に刻まれた写真――穏やかに笑う老人の顔。伊鶴の瞳の底には、死んだ水みたいな静けさだけが沈んでいた。

母・木村美菜も歩み寄り、頭ごなしに責め立てる。

「血はつながってなくても、これまでうちで散々いい思いさせてきたでしょう。食べさせて、着せて、困らせたことなんて一度もない! 一番あなたを可愛がってたおじいちゃんまで捨てるなんて、水上家は本当に無駄に育てたわ!」

声が大きすぎて、周囲の弔問客が次々と振り向く。ひそひそと囁きが連鎖し、波みたいに広がっていった。

「水上家が十八年育てた偽物のお嬢さまって、あの子? 三年前に本物が戻ってきたのに、実の親が貧乏だからって水上家にしがみついたって聞いたよ。面の皮厚すぎ」

「水上家があれだけ良くしてやったのに、じいさんが危篤のときに姿くらましたんだろ? 薄情にも程がある」

「ほらね、貧乏人の子は骨の髄までケチで意地汚いのよ。どれだけ上品に育てても、根っこの臭いは消えないってやつ」

一言一言が、伊鶴の耳の奥へ針みたいに刺さる。胸に残るのは悔しさ――けれどそれ以上に、疲労と麻痺だけだった。

水上家に十八年。誰よりも知っている。あの家の人間が、きらびやかな顔の裏でどれだけ薄汚く腐っているかを。

ただ一人――温もりをくれたのは祖父だけ。

思い浮かべた瞬間、胸の奥がきりきりと痛んだ。

伊鶴が動かないのを見て、美菜はさらに罵ろうとする。だがそのとき、そっと腕を引く手があった。

「ママ、怒らないで」

美菜の背後から、水上葵が姿を現す。葬儀の場だというのに隙のないメイク。立ち姿は、社交界のお嬢さまそのものだった。

美菜は実の娘を見るなり、笑顔を貼りつける。

「葵、どうして出てきたの? 風が強いんだから、冷えちゃうわ」

大地も心配そうに言う。

「体が弱いんだ。中で休んでろ。ここは俺たちに任せろ」

葵は甘く微笑む。

「パパ、ママ、大丈夫。私、水上家の娘だもの。お客様の相手くらいしないと」

美菜は満足げに頷き、刺すように言い放った。

「本当に気が利く子ね。どこかの誰かさんと違って、いつも仏頂面で……まるでこっちが借りでもあるみたいに!」

葵はくすりと笑い、それから伊鶴へ視線を向ける。声音だけは優しい。

「お姉ちゃん、パパとママの言い方を恨まないで。だって私たち、血のつながりがないんだし……おじいちゃんが亡くなったときにいなくても、仕方ないよ。私たちだって責めてるわけじゃ――」

「さすが本物のお嬢さまは違うねえ。偽物はここで芝居してるだけか」

弔問客のひとりが、小声で口を挟んだ。

葵はその言葉が嬉しくてたまらないという顔で、口元を押さえきれずに吊り上げた。得意げな目が、伊鶴を射抜く。

けれど伊鶴は、最初から最後まで葵を一度も見ない。墓碑の写真から、視線を外さなかった。

大地の怒りは、伊鶴の無感情な態度で完全に爆発した。

「まだここにいるつもりか?! うちはお前なんか歓迎しない! 出ていけ!」

大股で近づき、腕を掴んで引きずり出そうとする。

――動かない。

大地が眉をしかめ、力を込める。ぐい、と引く。

それでも、びくともしない。

罵声が出かかった、その瞬間。伊鶴は腕を軽く振った。大地の体がよろめき、横へ倒れそうになる。危うく地面に転がるところだった。

周囲が凍りついたように伊鶴を見る。

華奢に見える少女に、こんな力が……?

大地は体勢を立て直し、顔を引きつらせた。驚きと怒りが入り混じる。

「お前……!」

「触らないで」

伊鶴は言葉を切る。声音は刃みたいに冷たい。

「祈りを済ませたら出ていく」

大地は唇を動かしたが、大勢の前で拒むわけにもいかず、睨みつけるだけだった。

伊鶴は視線を戻し、墓碑を見上げる。ゆっくり目を閉じた。

三年前、葵が親子鑑定書を手に水上家へ来た日から、大地と美菜の態度は一変した。嫌悪と軽蔑を隠そうともしない目。

それでも祖父だけは、慈しむような笑みを絶やさず、頑として伊鶴を守ってくれた。

伊鶴は出ていくつもりだった。だがその矢先、祖父に末期癌が見つかった。離れられなかった。だから残り、持てるすべてで治そうとした。

誰も知らない。伊鶴がスタン大学で最年少研究員として、抗癌薬の開発を主軸に研究していたことを。

二週間前。祖父の癌細胞型に合わせたプロジェクトが、ようやく突破口に入った。研究室で四徹し、最後の鍵となる処方の完成品を作り上げた。

試薬を抱えて水上家へ戻った彼女を待っていたのは――祖父の訃報だった。

伊鶴は目を開け、写真の老人を見つめる。唇の端を歪め、掠れるほど小さな声で言った。

「おじいちゃん……約束、破ったね。戻ったら治してあげるって言ったのに。先に逝かないでよ」

「もういいでしょ?」

美菜の苛立った声が飛んでくる。

「祈りも済んだんだから出ていきなさい。目障りなのよ」

伊鶴は振り返り、無表情のまま告げた。

「出ていくのはいい。でも、おじいちゃんの遺品は持っていく」

美菜は一瞬ぽかんとし、鼻で笑う。

「縁起でもないボロ箱のこと? とっくにごみ処理場に捨てたわよ」

葵が一歩前に出る。悪意の笑みが、口元に張りつく。

「お姉ちゃんがいなくなってから、おじいちゃん、あれ抱えて宝物みたいにしてたの。息を引き取った直後、私が人に言いつけて捨てさせたんだ。だって中身、安っぽい薬剤でしょ? 臭いだけで吐き気がする。水上家の絨毯を汚したら、誰が弁償するの?」

伊鶴の瞳の奥に、獣みたいな殺気が一瞬走る。箱の中には、彼女が調合した薬剤だけじゃない。祖父のために残した医療モニタリング機器も入っている。

伊鶴は踏み込み、葵の顎を掴んだ。骨が軋むほどの力に、葵の顔色がさっと変わる。

「それは薬じゃない。おじいちゃんの命綱だ」

声は氷の刃。

「医者に私の薬を使わせないために……捨てたの?」

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