第2章 恩知らず
木村美菜は、きっかり二秒ほど固まった。次の瞬間、甲高い悲鳴を上げながら突進してくる。
「水上伊鶴! あんた、頭おかしいんじゃないの?! 葵に手ぇ出すなんて!」
彼女は水上葵を力いっぱい抱き寄せ、痛々しそうに顎下の赤い痕を確かめると、振り返って水上伊鶴を睨みつけた。
「田舎者の血が混じった雑種はこれだから。ほんっと野蛮ね。そりゃ西川和也だって婚約破棄したくなるわ!」
木村美菜の胸の中で、水上葵は目尻を真っ赤にして、泣き声まじりに言った。
「お姉ちゃん……私、分かってるよ。お姉ちゃんが和也お兄ちゃんのこと好きだったの。でも、和也お兄ちゃんが私を選んで、お姉ちゃんを捨てたからって……だからって、叩くなんて……」
周囲の招待客がざわつく。
なるほど、水上伊鶴がいきなり手を上げたのは、妹と男を取り合って――そういう話にしたいらしい。
その囁きが耳に入った瞬間、水上葵はますます遠慮なく「可哀想な私」を演じ始めた。
「お姉ちゃん、和也お兄ちゃんが『好きなのは葵だ』って、ちゃんと言ってくれたんだよ? 私のこと、恨まないよね……?」
水上伊鶴は、そのあまりの厚顔無恥さに、笑いそうになった。
話のすり替えが見事すぎる。さすが親子、息がぴったりだ。
葵の白々しい仕草を見つめ、伊鶴は口の端を嘲るように吊り上げた。
「どうして? おめでとうって言うのが先でしょ」
もともと西川和也みたいな放蕩息子は好きでもなんでもない。婚約を受けたのも、家同士の都合――それだけ。
そんな「拾ったゴミ」を大事にしたいなら、どうぞ。祝福してやる。
水上葵の泣き顔が、一瞬だけ引きつった。瞳の奥で、苛立ちがひらりと揺れる。
水上大地の顔がみるみる沈んだ。
「水上伊鶴! 何をぬかすか、この罰当たりが! お前みたいな女、どこの男が欲しがる? 葵の髪の毛一本にも及ばない!」
水上伊鶴はゆっくりと首を巡らせ、冷えきった視線を彼へ落とした。
「躾? 水上さん。水上家が、私に躾を語るの?」
そして招待客へ向き直る。声は大きくない。それでも、一語一語がはっきり届く。
「三年前。水上葵が親子鑑定書を持ってこの家に来た、その初日から。あなたたちは私を物置に追いやった。食べさせられるのは残り物。使用人にすら、犬みたいに呼びつけられてた」
招待客たちが顔を見合わせる。
木村美菜が、顔色を変えて叫んだ。
「でたらめ言うんじゃないわよ!」
「監視カメラ、出しましょうか?」
伊鶴の視線が葵をかすめ、言葉が続く。
「水上葵が学校で同級生をいじめた。評判を守るために、私に身代わりを押しつけた。あと、毎月の小遣い。葵には200万、私には0」
場内が、すっと凍りつく。
空気が変わったのが分かった。
さっきまで小声で伊鶴を責めていた連中が、次々と口を閉ざす。そして矛先は、今度は水上家へ向いた。
「ひどすぎない? 十八年も育てたのに、飯すらまともに食わせないって」
「身代わりまでさせて小遣いゼロ? そりゃ我慢できないわ」
水上大地の顔が赤くなったり青くなったりする。唇が震え、言い返せない。
反論すればするほど、自分の首が締まるだけだ。――全部、やった。だからこそ。
木村美菜が焦って伊鶴の袖を掴み、声の調子を無理やり柔らかくした。
「家族でしょう? こんなところで言わなくても……。貧しい実の親のところに戻せって言われて、腹が立つのは分かる。でも水上家は十数年も育ててあげたのよ? 恩を仇で返すのは――ね?」
「恩を仇で返す?」
水上伊鶴は鼻で笑い、手を振りほどいた。
「私に、何の恩があるの。水上家で私を人として扱ったのは、おじいちゃんだけ。あなたたちは私を――水上葵の身代わりにしただけでしょ!」
水上大地は体裁を気にする男だ。これ以上騒げば、水上家の恥が増えるだけだと悟ったらしい。歯を食いしばり、低い声で訊いた。
「……お前は、結局どうしたい」
水上伊鶴は彼を見ない。手のひらを広げるだけ。
「おじいちゃんの箱。あれを返して」
木村美菜がすぐに執事へ目配せした。
「行って。物置の古い箱、持ってきなさい!」
十分ほどして、執事が革の手提げ鞄を抱えて戻ってきた。表面は剥げ、灰がうっすら積もっている。
水上葵はそれを見た瞬間、露骨に鼻を押さえ、ねっとりした声で言った。
「お姉ちゃん、その箱の中って……まさか残飯? すっごい酸っぱい臭い。田舎に行ったらご飯ないのが怖いの?」
伊鶴は相手にせず、箱を受け取って開け、中を確認する。
薬瓶はきっちり整列し、一本たりとも欠けていない。
「返したわよね。だったら、動画は消しなさいよ!」
木村美菜が言い終えるより早く、執事が外から駆け込んできた。肩で息をしながら報告する。
「門の外にお客様です。お嬢様をお迎えに来たと――」
木村美菜は鼻で笑い、蔑むように言い捨てた。
「実の親でしょ。さっさと出てって。うちの敷地、汚さないでくれる?」
水上大地は「面子」を整えた声で首を振り、溜息をつく。
「まあいい。見送ってやろう。家族なんだから、礼儀を欠いたとは思われたくない」
――言葉は綺麗だが、本音は違う。
貧しい実の親に連れて行かれる伊鶴を客の前で見せつけて、「ゴミ溜めから拾った子をここまで育ててやった」と水上家の慈悲を誇りたいだけだ。
面白がりの招待客たちもぞろぞろと後を追う。
水上伊鶴は箱を提げ、無表情のまま最後尾を歩いた。
水上家の屋敷門が、ぎい……とゆっくり開く。
その場の全員が、同時に言葉を失った。
門前の広場に、黒いマイバッハが十六台。寸分の乱れもなく一列に並び、先が見えないほど続いている。
圧が、凄まじい。
どの車も新車で、漆黒の塗装が陽光を弾いて眩しく光った。
木村美菜の足が止まり、貼りつけていた笑みが固まる。
水上大地も目を見開いたまま、口が半開きになって閉じない。
水上葵は指先が掌に食い込むほど握りしめ、伊鶴の淡い表情を睨みつけた。瞳の奥で、濃い毒が渦を巻く。
葵はさりげなく数歩退き、庭の影に身を潜めると、素早く携帯を取り出し、暗号化された通信アプリを開いた。
「標的が出た。本当に来たよ」
声を限界まで落としながら、どこか甘い、病的な高揚を滲ませる。
「水上家のことは放っといて。予定通りやって。水上伊鶴がお嬢様になりたいなら――今日、粉々にしてやる」
通話を切ると、葵は乱れひとつないメイクを整え、無垢で可憐な表情を貼りつけ直す。そして何事もなかったように人垣へ戻った。
困惑が広がる中、先頭の車のドアが開いた。
降りてきたのは中年の男――三十代半ばに見える。背が高く、濃いグレーのカシミヤコート。彫りの深い顔立ちに、眉眼だけが鋭く、上質な気配をまとっている。
男は焦りもなく伊鶴の前まで歩み寄り、礼儀正しく口を開いた。
「水上伊鶴様でいらっしゃいますね」
伊鶴は男を上から下まで見た。
「あなたは……」
「芹沢家の執事、北川でございます」
北川はそう名乗ると、背後の護衛へ手を軽く上げた。
「ご挨拶を」
スーツ姿の男たちが、声を揃える。
「お嬢様、おはようございます!」
地鳴りみたいな声量に、木村美菜と水上大地の表情が完全に崩れた。
――田舎から来た、貧乏で食うにも困ってる親じゃなかったのか。
水上葵は嫉妬で目が血走りそうになる。
やっと伊鶴から「親」を奪い返したのに、こんな生活を手にされてたまるものか。
それに、調べたはずだ。伊鶴の実の親は畑で芋を掘って暮らす貧乏人だと。こんな高級車も護衛も、あるはずがない。
嘘。絶対に嘘だ。
水上葵が人垣を割って出てきた。声は甘く、棘だけがたっぷり混ざる。
「お姉ちゃん。パパもママも、お姉ちゃんのためを思って言ってるだけだよ? ここまで大げさにしたなら、芹沢家の人たちに恥をかかせないでね」
わざと声を張り、周囲の視線を集める。
「きっと……見栄のために、手を出しちゃいけないお金を使ったんだよね。芹沢家に『中身がない』ってバレたら、お姉ちゃん、家から追い出されちゃうよ?」
――罠だ。
伊鶴が少しでも動揺を見せれば、招待客は一斉に「詐欺師」と決めつける。芹沢家の第一印象を潰し、今日ここで伊鶴の未来を折るための。
北川がゆっくり首を回し、水上葵を冷ややかに睨んだ。
その視線だけで、葵の背筋がぞくりと冷える。喉が詰まり、二度と声が出ない。
北川は視線を戻し、水上伊鶴に向き直った。目に、微かな複雑さが滲む。
芹沢家は彼女を三年探し続けた。世界最高峰の衛星追跡まで使って。
それなのに、水上家にいた数年間、彼女は電子地図から消えたみたいに、手がかりが何ひとつ見つからなかった。
それが、二週間前。
その見えない壁が崩れ、彼女はふたたび芹沢家のレーダーに映った。
北川の口調が、少しだけ柔らかくなる。
「お車の準備は整っております。――ご自宅へお迎えに参りました」
