第4章 家産を奪う
「パラシュート、使えるか?」
芹沢蒼真は即座に座席の下からパックを引っぱり出し、水上伊鶴に差し出した。続けて、念を押すように言う。
「できなくても問題ない。俺が一緒に飛ぶ。絶対に無事でいさせる」
言いながら、もう自分の手で彼女にハーネスを装着し始め、降下の基本まで説明しだす。
けれど水上伊鶴は、以前しばらくエクストリームスポーツにのめり込んでいた時期がある。スカイダイビングなど、とっくに身体で覚えていた。今さら教わるまでもない。
それよりも、その数言のほうが妙に胸に引っかかった。
本気で心配している――そう感じたからだ。
彼女はパラシュートをひょいと彼へ投げ返し、北川を見た。
「ただの気流の乱れよ。姿勢制御の損傷もそこまで深くないはず。案内して」
「直せるのか?」
芹沢蒼真は目を見開いたまま、手の中のパックを抱えて固まる。
水上伊鶴は答える暇も惜しむように、足早に操縦室へ入った。
「制御系がズレてる。手動で補正して!」
鋭い声が飛ぶ。
彼女はコンソールをろくに見もしないまま、両手でコードを打ち込み始めた。まるで鍵盤でも叩くような速度だった。
「彼女の指示に従え! この5億の飛行艇をスクラップにしたくないなら、今すぐだ!」
操縦士は一瞬ためらったが、芹沢蒼真にぎろりと睨まれ、慌てて反論を引っ込めた。
水上伊鶴は中央制御装置の下のパネルを開けると、慣れた手つきで点検と処置を進める。その間も、操縦士への指示は一切途切れない。
そして――1分後。
「も、戻りました! 正常です!」
操縦士は隠しきれない喜色を顔いっぱいに浮かべた。
「お嬢様、すごすぎます……!」
だが、水上伊鶴の表情はぴくりとも動かない。工具箱を手早く片づけると、芹沢蒼真へ視線を向けた。
「あなた、傍に技師を一人つけたほうがいいわ。何かあるたびに飛び降りる前提でいる必要はないでしょ」
芹沢蒼真はぶんぶんと大きく頷いた。少しも面目を失った様子はない。
それどころか、すぐ執事を振り返る。
「聞いただろ。到着したら、お嬢様の言うとおり手配してくれ」
水上伊鶴は、家族というものにとっくの昔に期待を失っていた。
それでも、芹沢蒼真が真顔で段取りをつけている姿を見ると、胸の奥に小さな波紋が立つ。
もしかすると、芹沢家は違うのかもしれない。
もっとも、水上家の茶番みたいな葬儀を見た直後だ。
そう簡単に大きな希望を抱く気にはなれなかったが。
やがて、目的地に到着する。
芹沢家の屋敷は広かった。水上家の数倍はある。門前には運転手も使用人もずらりと並んでいる。
――これで田舎者?
水上葵は、貧乏という言葉の意味を本気で取り違えているのではないか。
「父さんと母さんは世界旅行中なんだ。君のことをさっき知って、今、戻ってる途中だよ」
「琴音と奏斗も手が離せなくてさ。どうしてもすぐには来られないらしい」
「でも歓迎会には絶対に顔を出すって言ってた。君へのプレゼントも用意するって」
芹沢蒼真は道すがら、途切れることなくあれこれ話し続けた。
水上伊鶴は特に気にしていなかったが――案内された部屋を見た瞬間、さすがに目を見張った。
広々とした明るいスイートルーム。
ざっと見ても80㎡は下らない。寝室、書斎、ウォークインクローゼット、浴室。加えて、陽当たりのいいバルコニーまでついている。
その一角には、いかにも少女趣味なブランコチェアが吊られていた。
急いで整えたにしては、隅々までずいぶん丁寧だ。
「どうかな? 少し急ごしらえだったけど、気に入らなければ全部替える」
芹沢蒼真は彼女の表情をうかがいながら、探るように尋ねた。
「悪くないわ」
ここにどれだけ滞在することになるかは分からない。
ただ、少なくとも今のところ、この家の人間はきちんと気を配っているように見えた。
彼女は水上家から持ち出した箱を机に置き、中身を一つひとつ確認していく。
薬の多くが未開封だった。
――じいさん、私の言うとおりに飲んでいなかった?
いや、違う。
そんなはずはない。
水上伊鶴の眉間がきつく寄る。さらに、水上葵があの箱を露骨に嫌っていたことを思い出し、疑念は濃くなった。
もしかして、水上家の連中は最初から、祖父にこの箱を触れさせてすらいなかったのではないか。
その可能性に思い至った途端、祖父の死は水上家の人間が間接的に招いたものかもしれない――そんな怒りが腹の底からどろりとせり上がる。
彼女は、自分が泣き寝入りする性分ではない。
まして、祖父に無駄な苦しみを味わわせたままで済ませるつもりなど、あるはずもなかった。
水上家が手を汚したのなら、代償は払わせる。
ノートPCを開く。
指先が素早く躍り、ジュエリーデザインの原稿を『ミア』名義で送信する。続けて、ある動画ファイルを水上大地へ転送した。
可愛い娘が、父親の財産を奪う算段に夢中だと知ったら。
あの男は本当に平然としていられるだろうか。
下手をすれば、水上家はすぐに二度目の葬式を出すことになるかもしれない。
その頃、水上家では――
水上大地は、もともと親孝行な男ではなかった。祖父の葬儀を取り仕切ったのも、世間体のためにすぎない。
弔問客が帰ったあと、彼は妻の木村美菜とともにソファに座り込み、水上伊鶴という恩知らずを好き放題に罵っていた。
ちょうど悪口に熱が入ってきた頃、彼のスマホが鳴る。
面倒くさそうに手に取ったが、数秒後には目を見開いていた。
最後まで見終えるなり、顔色がさっと黒く沈む。
「どうしたの?」
木村美菜が声をかける。
だが水上大地は答えもしない。顔をどんより曇らせたまま階段を上がり、水上葵の部屋の扉を蹴り開けた。
パック中だった水上葵はびくっと身を起こし、顔のシートをぽとりと落とす。
文句を言おうと口を開きかけた、その瞬間――
ぱぁんっ、と乾いた音が部屋に響いた。
不意打ちの平手打ち。しかも水上大地は容赦なく全力で振り抜いていた。
水上葵は床に叩きつけられ、耳の奥がじんじんと鳴る。
口の中に広がる鉄の味。
悔しさと怒りで頭がくらくらする。だが、父の剣呑な目に射抜かれ、思わず肩がすくんだ。
頬を押さえたまま、大粒の涙をぼろぼろと零す。声は震え、ひたすらに被害者ぶっていた。
「パパ、どうして……? お姉ちゃんが出ていってしまったのがそんなに――」
「黙れ!」
水上大地は怒鳴りつけると、スマホを彼女に叩きつけた。
「こんな醜聞をしでかしておいて、まだ言い訳する気か! まさかお前が、外の人間と組んで自分の家を嵌めようとしていたとはな!」
水上葵は内心で毒づく。
何を急に狂ったようなことを言い出すのか、と。
けれど表情だけは、あくまで哀れっぽく保った。
ぶつけられたスマホが痛む腕に当たる。涙をこらえつつ、それを拾い上げた。
画面の内容を見た途端、顔色がみるみる変わる。
慌てて弁解しようとした拍子に、指が再生ボタンへ触れてしまった。
次の瞬間、部屋に甘ったるくいやらしい声が流れ出す。
画面には、西川和也と水上葵が絡み合う姿。しかも、ただ親しげという程度では済まない。
「パパ、これ……和也お兄ちゃんと私は恋人同士なんだもの。少しくらい親密でもおかしくないでしょ。いったい誰がこんな盗撮を――」
涙をぽろぽろ零しながら、なおも言い逃れを続ける。
「こんなものをパパに見せるなんて、私の名誉を傷つけたいだけじゃなくて、親子仲まで壊そうとして――」
だが、最後まで言い切る前に。
スマホの中から、彼女自身の甘えた声が先に響いた。
「和也お兄ちゃん、いつになったら私を水上グループの社長にしてくれるの? 水上家を手中に収めないと、次の計画に進めないでしょ」
「……っ」
一瞬で、水上葵は喉を締め上げられたように言葉を失った。
あたふたと動画を止め、顔面蒼白のまま水上大地を見上げる。
「パパ、違うの、こんなの……信じないで。動画は偽物よ!」
「失せろ。今すぐ水上家から出ていけ!」
