第5章 先生

水上葵は爪を掌に食い込ませた。

やっと贅沢な暮らしを味わい始めたばかりなのに。これから先、水上家は全部自分のものになる。追い出されるわけにはいかない――絶対に。

木村美菜も追いついてくる。娘の頬に赤く腫れた手形を見つけた瞬間、目に涙を溜めて声を震わせた。

「私たちの実の娘よ! そんな子が、私たちを陥れるわけないじゃない……!」

ぎゅっと水上葵を抱きしめ、その顔は痛々しいほどの心配に染まる。

水上葵はその胸に縋りつくように身を預け、ぽろぽろと涙を落とした。糸の切れた珠みたいに、頬を伝って床へ弾ける。

「ママ……私、何をしたの……? パパ、あの動画持って入ってきて、いきなり叩いて……でも、私そんなこと言ってない。きっとお姉ちゃんが、技術で合成したんだよ……」

「うん、泣かない。ママは信じる」

水上大地の怒りの熱がすっと引き、理性が戻る。疑うような視線を二人へ落とした。

「本当に……お前がやったんじゃないのか」

水上葵は即座に床へ膝をつき、手を挙げて誓う。か弱い体を必死に支えながら。

「パパ、誓う……!」

水上大地はじろりと見下ろす。水上葵の目は必死で、しかし傷ついたように潤み、血の気の引いた顔は今にも倒れそうだった。

彼は目を細め、指先で顎を撫でるようにして考え込む。

――俺が、誰かに煽られた? 確かにさっきの俺は、短絡的だった。

「泣き喚いてどうする。……もういい。この件は俺が調べる」

そう言い捨てると、水上大地は背を向けて去った。謝罪など一切ない。相変わらず高いところからすべてを裁く、支配者の背中。

水上葵はふっと力が抜け、そのまま木村美菜の腕の中へ崩れ落ちた。

木村美菜は胸を締めつけられたように、何度も宥める。

「ほら、薬塗りに行きましょ。女の子の顔に跡なんて残ったら大変よ。将来、お嫁に行けなくなる……。いい? 西川家のこと、ちゃんと掴んでおかなきゃ」

水上葵は弱々しく頷き、脆さと甘えをちょうどよく滲ませる。

「うん……ママの言うとおりにする」

俯いた、その瞬間。

瞳の奥で、嫌悪と憎悪がぱっと燃え上がった。

――結局こいつら、私を利用したいだけじゃない。

この二人の老いぼれめ。

西川和也と組んで水上家を丸ごと飲み込んだら、絶対に許さない。

同時に、胸の底では別の嵐が巻き起こっていた。

水上伊鶴のあのクズ、いつの間にあの動画を録った?

まだ何を握ってる……?

――最悪だ。

その頃の水上伊鶴は、スマホを手に、さきほどの一家のやり取りを最初から最後まで眺めていた。

監視カメラの映像は、思った以上に鮮明だ。

コーヒーを口元へ運び、静かにひと口含む。

画面は水上葵の怨嗟に歪んだ目つきで止まっていた。水上伊鶴は指先で拡大し、瞳に宿る憎しみも、頬に残る手形も、くっきりと見て取って小さく笑う。

――もう、これで限界?

残念。まだ始まったばかりだ。

本当の絶望は、この先に用意してある。

背後から気配が近づく。いつの間にか芹沢蒼真が来ていて、両手で椅子の肘掛けを掴み、身体を前へ乗り出した。

「殺したい?」

「ううん。楽に死なれたら、安すぎる」

水上伊鶴は画面を消し、視線の端で例の箱を捉える。指先でそっと撫でた。

「欲しいのは……生き地獄。死にたくて泣きついてくるくらいの」

「さすが、俺たちの妹だな」

芹沢蒼真はからりと笑った後、目を細めて真面目な顔になる。

「水上家のおじい様の死……たぶん、そんな単純じゃない」

「分かってる」

また「俺たち」という言葉が出た。

けれど不思議と嫌ではなかった。

そう呼ばれるのも、案外悪くない。

芹沢蒼真は何か思い出したように視線を落とし、寂しげに息を吐く。

「……そういえば、おじい様って言うなら。うちのおじい様も今、病院なんだ」

「発作みたいにぶり返すのに、原因がどうしても掴めない。最強の医療チームを当ててるのにさ」

いまの観察だけでも、芹沢家が普通の家ではないのは分かる。

そんな家が総力を挙げても手が出ない病――。

水上伊鶴は少し興味をそそられた。

「行こう。おじいさんに会いに」

水上伊鶴は手早く身支度を整え、芹沢蒼真と車に乗る。VIP通路を通って、そのまま都心の総合病院へ入った。

第一線の病院、そのVIP病棟。入れるのは金か権力か、その両方を持つ者だけだ。

芹沢蒼真は隣で口角を上げる。

「そうだ。まだ知らないだろうけど、お前、結城家の若様と婚約してる」

水上伊鶴は眉を上げ、問い返そうとした――そのとき。

エレベーターの扉が開いた。

水上伊鶴の視線は、隣のカンファレンス室へ吸い寄せられる。窓越しに見えるのは、名だたる医師たち。おじい様の病状について協議しているところだった。

芹沢蒼真は返事がないのに気づき、振り向いて彼女の視線の先を追った。急かすことはしなかった。

水上伊鶴は、聞けば聞くほど眉間に皺が寄る。

――診断の方向を誤れば、人は死ぬ。

こんな会議をしていて、まだ分からないの?

大前提がズレている。

水上伊鶴はそのまま診療室の扉を開け、冷えた声で切り込んだ。

「その治療を続けたら、患者は数日であなたたちに殺される」

ばたん、と大きな音。

室内の空気が途切れ、専門医二人と、脇で見学していたアシスタントが同時に顔を上げた。

アシスタントは相手が若い女だと見るなり、虫でも払うみたいに手を振る。

「はいはい、出てって。先生方が治せない病なら、世界中の誰にも無理なんだよ!」

芹沢蒼真が険しい顔で踏み込もうとしたが、水上伊鶴が一瞥で制した。

彼は一歩退き、腕を組んで面白がるように見守る。

水上伊鶴はCTとエコーのフィルムへ歩み寄り、異常値を指で示した。

「若い頃、頻繁に海外のジャングル地帯へ行ってた。そこで潜伏性の真菌に感染してる」

アシスタントは鼻で笑い、侮蔑を隠そうともしない。

「原因なら病院中が知ってるけど? まさか、あんたが治せるって? 大口叩くなよ」

専門医二人も怪訝そうに視線を交わす。

「お嬢さん、ここは会診室です。騒ぐ場所ではありません。それに私は以前から言っているが、弟子は取らない。注目を引きたいのなら他所で――」

「高山先生、相手にするだけ無駄ですよ」もう一人が吐き捨てる。「こんなの、アシスタントにすらなれません」

水上伊鶴は薄く笑った。

「弟子にしてほしい? 冗談。あなたたちの師匠がここにいても、私のことを先生と呼ぶ」

アシスタントの顔がかっと赤くなる。

「狂ってる! 警備員呼べ! あの女をつまみ出せ!」

水上伊鶴は手元の数値をもう一度指し、冷淡な声を落とす。焦りも怒りもない。

「ここ。指標が上がったり下がったりしてる。変化を見比べると、発作のときだけわずかな揺れが出る。これを炎症の指標だと決めつけるなんて……愚かだ」

アシスタントは唾を吐くように言い返す。

「こっちの先生方は超一流だ! 何人も救ってきた! お前みたいなのが口出しする資格あるか!」

水上伊鶴は手首を軽く回し、視線をふわりと向けただけ。

それだけで、室内に目に見えない圧が落ちた。

「そう。じゃあ、ピエールさんに電話して聞いてみればいい」

その名が出た瞬間、専門医二人の顔色が変わった。背筋が伸び、空気が張り詰める。

――なぜ、その名を?

ピエールは長く身を隠し、真名など決して表に出さない。

それを、この若い女が?

「き、君……どうしてその名を……。君は、いったい何者だ」

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