第6章 貧乏人?
先生の名前を知るくらい簡単でしょ。ネットで調べればいいだけじゃん。そんなことでイキってんの?
アシスタントが横で、あからさまに白い目を向けた。
「先生、こいつはただのカッコつけ女ですよ。さっさと人を呼んで追い出してください。芹沢おじいさんの治療が遅れたら、こっちが責任取れませんからね」
水上伊鶴は相手にしなかった。
彼女は淡々とデータに目を通す。散らばっていた症状が、頭の中で一本の糸に結ばれていく。
ほどなくして、水上伊鶴は一点に視線を止めた。
——なるほど。原因が見つからず、発作を繰り返すわけだ。
病の根は臓器じゃない。血管のほうだ。
アシスタントが得意げに鼻で笑う。
「読めんの?」
水上伊鶴が顔を上げ、彼を見た。視線は氷みたいに冷たい。
こちらでアシスタントが威勢よく言い募る間に、向こうでは専門医二人がすでにピエールへ電話をかけていた。
ほどなくして、通話がつながる。
専門医の一人が、やけにへりくだった声で切り出した。
「先生、ひとつ症例でご相談が……先ほど若い女性が来まして、我々の研究の方向性が間違っていると指摘したんです。それに、先生のお名前まで口にして」
彼は先ほどの経緯を手短に報告する。
受話器の向こうは長い沈黙。聞こえるのは、ペン先が紙を走る「さらさら」という音だけ。
我慢できず、アシスタントが割り込んだ。
「その女、でたらめ言ってるに決まってます。先生でも判断できなかったことを、あいつが一目で分かるわけないでしょう」
「注目を集めたいだけですよ。そういう手合い、何人も見てきました」
水上伊鶴が追い出される瞬間を、今か今かと待ちわびている顔だった。
ピエールのほうはしばらく無言のまま。
アシスタントはへらへらと笑い、勝ち誇ったように言った。
「ほら見ろ。あいつは騒ぎに来ただけで、何もできないんです。ピエール教授だって怒って——さっさと追い出しましょう!」
「待て!」
電話の向こうから、弾んだ声が飛んできた。
「彼女の言うとおりだ!」
「ほら、だから間違——」
アシスタントの笑みが、じわじわと凍りついていく。
自分が何を聞いたのか理解した瞬間、声が裏返った。
「彼女が正しい? そんな、あり得ません!」
二人の専門医も身を寄せる。
ピエール教授は水上伊鶴の正体に気づいたらしく、声の調子が重くなる。
「君たちは本当に……彼女は私の——」
「……こほん」
ピエールが余計なことを口にしそうになったところで、水上伊鶴が小さく咳払いをした。
ピエールはすぐに察し、言い回しを変える。
「そのお嬢様は、ただ者じゃない。君たちが彼女のそばで一日学べば、私のところで十年学ぶより価値がある。まったく、そろいもそろって愚か者だ!」
温厚で知られるピエール教授が、珍しく怒鳴りつける。
専門医二人の顔色はさらに悪くなった。
若いのに、問題点を一瞬で見抜き、しかも恩師の名まで知っている。どう転んでも、絶対に敵に回してはいけない相手だった。
電話が切れる。
二人の専門医はさっきまでの尊大さをかなぐり捨て、媚びるような笑みを浮かべた。
「お嬢様、どうかお残りいただき、我々にご指導を」
「先ほどは失礼しました。心よりお詫び申し上げます」
六十を超える老人が腰を折り、最新の検査資料を恭しく差し出す。
「こちらも……どうか、見ていただけませんか」
アシスタントは顔を赤くしたり青くしたり、落ち着かない。
教授が年を取って、判断が鈍っただけだ。きっとそうに違いない——そんな必死の言い訳が、顔に貼りついていた。
水上伊鶴は資料を受け取り、素早くページをめくる。
そして一枚の異常値報告に、指を強く落とした。眉間がきゅっと寄る。
「あなたたち、医学知識がこの程度なの? こんな初歩的なミスまで犯すなんて」
「ここも、それからここも。血液の異常が何度も出てるのに、まだ臓器のほうばかり治療してる」
「我々は……」
専門医は、紙面のわずかな数値を見つめ、穴があったら入りたい顔になった。
そのとき、廊下のほうから「パチ、パチ、パチ」と拍手が響いた。
芹沢蒼真が、おじい様の身体を支えながら、ゆっくりと入ってくる。
アシスタントは反射的に愛想笑いを貼りつけ、迎えに出た。
「芹沢おじいさん、どうしてベッドを——」
おじい様はアシスタントなど眼中にない。水上伊鶴を見つめ、慈しみの色を深く宿した。
「さすが、わしの孫じゃ。さっき、お前をいじめたのは誰だ。じいちゃんが味方してやる」
水上伊鶴も彼を見返す。
この老人は何度も経済誌で見たことがある。芹沢家の当主。——その人が、自分の祖父。
つまり、芹沢家は……財界の頂点。
水上葵たちが口にしていた「田舎者」という言葉を思い出し、水上伊鶴はこみ上げるものを笑いで押し流しそうになった。
おじい様は病に削られ、身体は弱っている。それでも、その眼差しだけは重く、すべてを見透かすようだった。
水上伊鶴は、ほんの少しだけ本心の笑みを浮かべる。
「……おじいちゃん」
おじい様も穏やかに笑い返した。噂に聞く冷徹さなど、どこにもない。
アシスタントは、頭を雷にでも打たれたように固まった。
——今、何て?
この女が、芹沢家の実の孫……?
膝が崩れ、床にぺたりと座り込む。顔面は真っ青だ。
「お、お嬢様……! どうか、無礼をお許しください。あなたの才能に嫉妬して、口から出まかせを——」
水上伊鶴が口を開く前に、おじい様がアシスタントを足で蹴り飛ばした。
「わしの孫に手を出すとはいい度胸だな!」
「出ていけ。芹沢家はお前を雇えん」
アシスタントは床を転がり、慌てて起き上がると水上伊鶴の脚にしがみついた。
「お嬢様! 一度だけ、許してください! 身分を知らなかったんです!」
「連れていけ」
外で待機していたボディガードが一斉に入ってきて、そのまま彼を抱え上げる。
水上伊鶴の胸に、じんと温かいものが走った。水上家では、こんなふうに守られたことなど一度もない。
アシスタントは最初は罵声を上げ、最後には泣き声で縋りついた。
「このクズ! 離せ! 入れろ!」
「お前は家柄がいいだけだ! 芹沢家がなきゃ何もできねぇくせに!」
「お願いです、お嬢様! 許して……本当に間違ってました! 助けてください、出ていきたくない!」
声は廊下の奥へ遠ざかり、やがて消えた。
専門医二人は額の汗を拭い、息を吐く。
「お嬢様、今後はあなたが我々の合同診療室の指導医です。すべて、あなたの指示に従います」
泰斗と呼ばれる二人が、若い女性にここまで頭を下げる。外の人間が見たら、誰も信じないだろう。だが現実だった。
水上伊鶴は、その場で威張り散らしたりしない。ただ、静かに息をついた。
「診療で一番大事なのは、目の前の人を治すこと。名声を気にしたら、初心を失う」
「ここを片付けて。それから、ここ数日の検査データは時系列で整理。午後3時に短いミーティングをするわ」
おじい様はますます孫が気に入ったらしく、目を細める。
「どうしてそんなに医療に詳しいんだい?」
「少し前に、数年ほど学んだだけ」
それを聞いた専門医二人が、口元をひくつかせた。
——数年、だと?
自分たちは一生かけて何をやってきたのか。そんな顔だった。
芹沢蒼真も深くは追及せず、言った。
「じゃあ、これからは祖父の身体を頼む」
「うん。……あ、私、トイレに」
水上伊鶴が二言三言、注意点を伝えようとした、その瞬間。
耳元のイヤホンから、激しい「ピピピピピッ」という警告音が鳴り響いた。
水上伊鶴の表情が変わる。踵を返し、トイレへ駆けた。
バンッ、と乱暴に扉が閉まる。
彼女は慌ててスマホを取り出した。
画面の中央で、真っ赤な警告灯が点滅している。
——このビルに爆弾がある!
