第1章
先週、北米のあらゆる狼の群れを統べる至高のアルファ――マーカス・ナイトシェードである父が、夢を見た。
亡き母の夢だ。
夢の中で母は泣きながら父を責めた。縄張りの拡大にばかり執着して、私――恋というものを一度も経験したことのない娘を、完全に孤立させたままにしている。このままでは独りで死ぬ運命だ、と。
亡き妻の霊を慰めるために、父は何十年も前の盟約を掘り起こし、私のために番の儀を取り決めた。
父があてがった相手は、ブラッドムーンの群れの現アルファ、ケイン・ブラッドムーン。父いわく、強大で冷酷――婿に求める条件にぴったりだという。
父は私に命じた。番の儀の証として、母が死ぬ前にデザインした銀のムーンストーンの指輪を受け取ってこい、と。
護衛は連れてこなかった。地味な灰色のパーカーに色あせたジーンズ姿のまま、私はブラッドムーン領で最も豪奢な宝飾店の扉を押し開けた。
「いらっしゃいませ、お客様。ご注文のお品でございます」
店員は恭しく、精緻に作られた純銀の指輪を差し出した。台座には傷ひとつないムーンストーンがはめ込まれ、照明の下で淡い光をやわらかく放っている。
私は指輪を取り上げ、そっと薬指に通した。
母が私にくれた、最後の贈り物。
その記憶に沈みかけた瞬間、甲高い女の声が唐突に思考を切り裂いた。
「いい指輪ね。私、それ欲しい」
反応する間もなく、真っ赤なネイルの手が伸び、乱暴に私の指先から指輪をひったくった。
「それは私が特注したものよ」私はそう言い、顔を向ける。平静を保とうと自分を抑え込み、女を冷ややかに見据えた。
「だから言ったでしょ。欲しいの」女は私を見ることすらしない。指輪を誇らしげに宙で振り、薄笑いを浮かべる。
「私が誰か分かってる? 私、ブライアー・グレイ。ケイン・ブラッドムーンの『番になるはず』の女よ。小さいころから一緒に育ったの。この領で、私が欲しいものは全部手に入る。手に入らないものなんてないのよ」
その名を聞いた途端、皮肉が胸の奥を冷たい波のように満たした。
ケイン・ブラッドムーン――それは、父が私の相手に選んだ男、その名ではないか。
私は携帯を取り出し、父から渡されていた番号にかけた。
「あなたの幼なじみのブライアー・グレイが、私の番の儀に使う指輪を奪っています。どういうつもりで対処するの?」
……
ブライアー・グレイ。
ここへ来る前、情報担当の部下が言っていた。ケイン・ブラッドムーンには幼なじみの恋人同然の女がいて、いつまでも縁が切れずにいる――と。
今日の出来事について、ケインが筋の通る説明をできないのなら、番の儀など破談にしてしまえばいい。
通話の向こうが二秒、死んだように沈黙した。そのあと返ってきたのは、耳を疑う言葉だった。
「誰だ? ブライアーの望みに口を出す権利がお前にあるのか。この領ではブライアーが欲しいものは何でも手に入る。お前に止める権利などない」
権利がない?
私は、あなたのあてがわれた番――セレナ・ナイトシェードだ。
名乗ろうとした、その瞬間。スピーカーからツーツーという無機質な音が鳴り、通話が切れた。向こうから切ったのだ。
携帯を握り締めると、胸の奥で馴染みの怒りがじりじりと燃え上がった。
私の『番』とやらは、私の番号すら登録していない。たった一言も、最後まで言わせる気もない。
「あーあ、みじめねえ」ブライアーは口元を手で隠し、肩を震わせて笑った。
「どうやってケインの番号を手に入れたか知らないけど、まさか一本電話したくらいで、ケインが私じゃなくて、薄汚い野良の味方をするとでも思ったの?」
彼女の口元の嘲笑は、吐き気がするほどの優越感に染まって残酷さを増した。悪意に満ちた視線が、刃物のように私の服装をなぞる。
「そのボロ切れみたいな格好、見てみなさいよ。うちの縄張りの道路清掃だって、あんたよりマシな服を着てるわ。安っぽくて下品な身なりで、ケインがあんたに目を向けるとでも? こんなに上品な指輪が似合うとでも思ってるの?」
私は氷のように言い返した。
「服で自分の価値を証明しようとはしないわ。そういうのはたいてい、弱い者が足りないものを埋めるためにやることよ。ケインがあなたみたいな人間とつるむのなら、趣味は最低ってことね」
私は彼女の手から指輪をひったくり返し、店員へ向き直った。
「包んで。今、支払うわ」
だが店員の顔色は真っ青になった。手を震わせ、どもりながら言う。
「お、お客様……どうか、グレイ様に……お渡しください……。あの方に逆らうなんて……私には……。ブラッドムーンの群れのアルファたちに目をつけられたら、この縄張りで生きていけません……」
ブライアーは得意げに、ブラッドムーンの群れの権威をひけらかした。
「この土地で一番強いアルファが、私の背中についてるの。あんたみたいな外様の下っ端なんて、息をするより簡単に消せるわ」
この指輪は、母が亡くなる前に自らデザインしたものだ。私に遺してくれた、最後の贈り物。渡すわけがない。
私は深く息を吸った。
血の奥を流れる至高のアルファの気配が、音のない暴風のように一気に外へ広がる。
店内の照明が激しく明滅し、陳列棚の宝飾品がガラスに触れて小刻みに震えた。
ブライアーの瞳に、一瞬だけ原初の恐怖が走る。身体がわずかに前へ折れたのは、格上のアルファに屈する下位の狼の本能的な服従だった。
だが彼女はすぐに立て直し、内側の動揺を毒そのものに塗りつぶして、店員へ振り向き金切り声を上げた。
「何見てんのよ!? 私のために指輪を箱に入れなさい! 今! すぐ! ただちに!」
追い詰められた店員は、私にすがるように懇願した。
「お客様……グレイ様にお譲りになった方が……。お客様も地位の高い方かもしれませんが、この縄張りでは誰もブラッドムーンの群れに逆らえません……」
いつの間にか客たちがじわじわと集まり、ひそひそ声があちこちで弾けた。
「ねえ、あれってブライアー・グレイじゃない? ケイン・ブラッドムーンの幼なじみ。アルファのケインが甘やかしまくってるって聞いたわ。先月、ならず者がうっかりぶつかっただけで、翌日には手足を全部へし折られて荒野に捨てられたって……」
「そうよ、奥さん」誰かが小声で言った。
「指輪を渡して謝って、許しを乞いなよ。ブラッドムーンの群れのアルファを怒らせたら、この縄張りから生きて出られない」
「その格好じゃ、権力があるようにも見えないしね。指輪のために命を捨てることないでしょ」
恐怖に駆られた服従と裏切りの空気は、ブライアーの膨れ上がった自尊心にとって最高の肥料だった。
彼女は見下すように身を乗り出し、瞳を残忍な愉悦でぎらつかせる。
「聞こえた? これが現実よ。あんた、いったい何者なの? 私と張り合えると本気で思ってるの?」
ブライアーは手を差し出し、傲慢に命じるように指を鳴らした。
「さあ、ひざまずいて。両手で指輪を差し出しなさい」
「私の言う通りにすれば、私の機嫌次第で生きてこの縄張りを出してあげることも考えてあげる。そうじゃなければ……」
