第1章
雪はもう三日三晩、絶え間なく降り続いていた。橘家のアルファの屋敷の外、青石畳の道は分厚い氷に覆われている。
杉山夕晴は門前に、すでに十時間も跪かされていた。
自己治癒を持つ人狼であっても、この極寒には耐えきれない。
膝はとうに感覚を失い、皮膚と氷が凍りついて貼りついている。わずかに身じろぎするだけで、胸を引き裂かれるような激痛が走った。
意識の底で、灰銀の狼魂――幽影が苦しげに唸る。
『橘陸斗の節穴め! あいつは杉山雨音って毒婦の言うことしか信じやしない。あの女、嘘の腐臭まみれだってのに、宝みたいに抱え込んでやがる!』
杉山夕晴は紫に変わった下唇を噛み、鉄臭い血の味を舌に感じた。
幽影に同調して罵る力すら、もう残っていない。
やがて門の内側から、エンジンの轟きが響いた。
黒いオフロード車が門前で停まり、ドアが開く。黒い軍靴に包まれた長い脚が、雪の上へ降り立った。
橘陸斗が、見下ろすように彼女の前へ立つ。
黒のコートは隙なく仕立てられ、輪郭は深く鋭い。高い眉骨の下、最上位アルファの威圧が無言のまま辺りを支配していた。
杉山夕晴は必死に顔を上げ、掠れた声で縋る。
「陸斗、お願い……星ちゃんを助けて……! 狼魂枯渇症なの。あなたの精血しか、あの子を救えないの……!」
「救う? その雑種を?」
橘陸斗は足を上げ、軍靴で容赦なく彼女の手の甲を踏みつけた。
「寝言は寝て言え」
杉山夕晴は痛みに震えながらも、涙だけはこぼさなかった。
橘陸斗は腰を屈めると、大きな手で彼女の髪を乱暴に掴んだ。そのままごみ袋でも引きずるように、ずるずると屋敷の中へ引きずっていく。
ざらついた砂利が服を裂き、肌を切り、血の跡が点々と残る。
痛みで叫ぶこともできず、喉の奥から途切れ途切れの呻きが漏れた。
橘陸斗は暗い扉を押し開け、急な階段を下っていく。
地下懲戒室。
年じゅう陽の差さぬその空間には、壁一面に刑具が吊られ、中央には鈍い光を放つ刑架が据えられていた。
純銀製。
人狼にとって銀は猛毒だ。肉だけではない。魂そのものを灼く。
橘陸斗は腕を振り、杉山夕晴を刑架へ叩きつけた。
「ぁあ――ッ!」
背中が銀に触れた瞬間、じゅうっ、と肉の焼ける音が弾ける。
杉山夕晴は甲高い悲鳴を上げ、本能のまま激しく身を捩った。
だが橘陸斗は無表情のまま太い銀鎖を引き寄せ、彼女の悲鳴を聞き流しながら四肢を刑架へ固定する。
黒革の手袋をゆっくり外し、脇の鉄机へ放り投げた。
「痛いか?」
口元に残忍な笑みを刻み、橘陸斗が低く囁く。
「夕晴。お前は雨音を狂狼症に追い込んだ。あいつは昼も夜も苦しみ続けてる。お前の痛みなんか、その足元にも及ばない」
「陸斗……あなたが私をどうしようと構わない……」
杉山夕晴は息を繋ぐのもやっとのまま、必死に言葉を絞り出す。
「でも星ちゃんは……三か月ももたない……! お願い……私の血を抜いてもいい、命だってあげる……だから、精血を少しだけ……」
橘陸斗はぞっとするほど高らかに笑った。
「俺の娘だと? てめえ、外で何をしてきたか、俺が知らないとでも思ったか」
彼はコートのポケットからスマホを取り出し、動画を再生すると、その画面を彼女の目の前へ突きつけた。
映っていたのは、薄暗く淫靡な地下のパーティーだった。
画面の中心では、裸の女が複数の雄の人狼と絡み合っている。
人の姿を保った大男もいれば、半獣化して狼耳と尾を晒した者もいた。
女は媚びるような表情を浮かべ、耳障りな嬌声を漏らしながら、男たちの好き放題に身を任せている。
その顔が、明滅するネオンの下ではっきり映る。
杉山夕晴の顔だった。
「……違う……私じゃない……」
杉山夕晴の瞳孔がきゅっと縮む。
「偽物よ! 陸斗、これは雨音が捏造した――」
「黙れ!」
乾いた音が地下室に響いた。橘陸斗の平手が、容赦なく彼女の頬を打ち抜く。
「昔、お前の身体から他の雄の匂いも嗅いだ。まだ言い逃れする気か」
凄まじい力で頬を打たれ、杉山夕晴の顔は横へ弾かれた。頬は瞬く間に赤黒く腫れ上がる。
「今さらまだ雨音に泥を塗るつもりか!」
橘陸斗の胸が荒く上下し、アルファの凶暴な気配が懲戒室に渦巻いた。
「誰にでも股を開く下種が。どこの野郎の種かも分からない餓鬼を孕んでおいて、俺に精血を寄越せだと? ふざけるな!」
杉山夕晴の耳にはきいんという耳鳴りが響き、口の中は血の味で満ちていた。
絶望の中、ただ目の前の男を見上げる。
彼は彼女の運命の番だった。月の女神の祝福のもと、魂で結ばれた唯一の相手。
かつては、誰よりも深く愛し合っていた。
だが杉山雨音が現れてから、すべてが狂った。あの暗黒の森で自分を救ったのは杉山夕晴ではないと疑い始め、あの動画のせいで、彼女の貞節までも疑うようになった。
二人の子ですら、雑種呼ばわり。
五年――。
群れから追われ、星ちゃんとともにはぐれ狼に落とされ、他の人狼たちから散々に踏みにじられてきた。
その一方で、杉山雨音は橘の群れで最も尊い座に収まっている。
橘陸斗は二歩退き、眼差しを毒のように細めた。
「そんなに発情が好きで、男どもに可愛がられるのが好きなんだろう? なら今日は、望み通りにしてやる」
彼が指を鳴らす。
横手の鉄扉が開き、四人の屈強な人狼が入ってきた。
「アルファ」
四人は一斉に頭を垂れた。
橘陸斗は杉山夕晴を顎で示し、鼻で嗤う。
「くれてやる。息がある程度なら好きにしろ。狼の姿が好みなんだろう? 変じて、たっぷり満足させてやれ」
言い放ったその瞬間、なぜか胸の奥がきり、と痛んだ。何かが本能的に拒んだような違和感。だが橘陸斗は、その感覚を即座に押し潰す。
「橘陸斗! 正気なの!? 私はあなたの運命の番よ!」
杉山夕晴は鎖の限界まで身を捩り、必死に叫んだ。
四人の人狼の目に、いやらしい光が宿る。
ルナ。
本来なら、下位の人狼が顔を見ることさえ難しい高嶺の存在だ。アルファに寵愛されていないとはいえ、その顔立ちと肢体は、底辺の人狼たちにとって夢に見るしかない上物だった。
ごき、ごきっ、と骨の軋む音。
二人が狼形へと変じ、ざらついた舌で唇を舐め、粘つく涎を垂らした。
刑架へにじり寄り、黒い毛に覆われた大きな手が、ぼろぼろの襟元を掴む。
びりっ、と布が裂けた。
白い肌と豊かな胸元、しなやかな肢体が、冷えた空気にむき出しになる。
「いや……! 来ないで! 触らないで!」
杉山夕晴は悲鳴を上げた。意識の底で幽影も絶望的な叫びを上げる。だが銀鎖に縛られた狼魂には、どうすることもできない。
もう一人の半獣化した男は、待ちきれないとばかりに腰紐へ手をかけ、獲物に飛びかかるように杉山夕晴へ襲いかかった。
その瞬間――。
地下室を揺るがす、凄絶な狼の咆哮。
狂暴な威圧が衝撃波となり、刑架を囲んでいた四人の人狼をまとめて吹き飛ばした。
橘陸斗が先頭の灰狼の腹を蹴り抜く。
巨体はそのまま鉄扉へ叩きつけられ、がんっ、と重い音を立てた。残りの三人は恐怖に喉を鳴らし、その場へ這いつくばって震え上がる。顔を上げることすらできない。
橘陸斗の胸は激しく上下していた。氷のような青い瞳には、燃え盛る怒りが宿っている。
なぜ自分が、他の雄がこの女に触れようとしただけで、ここまで理性を失うのか。
彼自身にも分からない。
だが運命の番としての本能だけは、決して他の雄の侵入を許さなかった。
「消えろ!」
怒号に弾かれるように、灰狼たちは転げるように懲戒室から逃げ出した。ほどなく鉄扉が重く閉じる。
橘陸斗は刑架の前まで歩み寄る。
裸のまま震える杉山夕晴を睨んだ瞬間、胸の奥の苛立ちはいっそう増した。
自分の失態も衝動も、すべてこの女の卑しさのせいだ――そう決めつけるように。
「何だ? あいつらに触られなくて、がっかりしたか」
橘陸斗は彼女の腰を乱暴に掴み、獣じみた口づけで食らいつくように肌を噛んだ。滲んだ血とともに、いくつもの歯形が肌へ刻まれていく。
彼はベルトを引き抜き、片手で彼女の尻を押さえつける。
そして、自らを掴むと――そのまま容赦なく身を押し入れた。
