第4章
病衣が、視界の中を真っ逆さまに落ちていく。
「星ちゃんッ!」
杉山夕晴は喉が裂けるほど叫ぶと、両手で手すりに体を預け、何も考えずそのまま乗り越えた。自分も飛び降りるつもりだった。
つま先が床を離れかけた、その瞬間――。
銀灰色の巨狼が、舞い散る雪を蹴散らして虚空から躍り出た。
北風の狼魂――!
江崎渚が巨狼の姿へ変じ、宙で星ちゃんを背にしっかりと受け止める。
銀灰の巨狼は首を反らし、3階のオープンテラスへ向かって長い遠吠えを放った。
張り詰めていた杉山夕晴の神経が、その一声でふっと緩む。
手すりからずるりと滑り落ち、彼女はその場にへたり込んだ。
助かった。
星ちゃんは、生きている。
杉山夕晴は深く息を吐く。だが次の瞬間、精巧な化粧を崩さぬままの杉山雨音の顔を、憎悪そのままに睨みつけた。意識の奥底では、狼魂の幽影が吠え狂っている。
――殺せ。
「お前は……死ね」
掠れた声を喉の奥から絞り出し、杉山夕晴は子を守る雌獣のように杉山雨音へ飛びかかった。
両手がその首をきつく締め上げる。尋常ではない力だった。
「なんで私の娘に手を出したの! 死ねッ!」
杉山雨音は無理やり顎を反らされ、酸欠で顔を赤く染める。
それでも、もがきもしない。
夕晴の手を剥がそうとすらしなかった。
むしろ、その目には奇妙な高揚が宿っていた。
杉山夕晴の肩越しに遠くを見やり、杉山雨音は唇の端を吊り上げる。
「だって……」
吐息ほどの声で、彼女は二人にしか聞こえない音量で囁いた。
「陸斗が来たもの」
杉山夕晴が一瞬、息を呑んだその隙に。
杉山雨音は拘束を振りほどき、体を勢いよく後ろへ反らせた。
ドンッ――と、病棟ビルを揺らす轟音。
黒焔の戦狼が、積雪の中から凄まじい威圧を纏って跳び上がる。
大きく開いた顎は、けれど驚くほど優しく、杉山雨音のコートの後ろ襟を犬歯でくわえ、そのまま地面へと危なげなく着地した。
橘陸斗。
橘の群れを率いるアルファ。
一枚隔てているだけのはずなのに、捕食者の威圧がそのまま杉山夕晴の背へ叩きつけられる。
ただでさえ深手の体には耐えきれない。
杉山夕晴はくぐもった呻きを漏らし、どろりと大量の血を吐いた。
黒焔が散り、高身長の男が杉山雨音を抱いたまま3階のオープンテラスへ跳び戻る。
その氷青の瞳には、今や剥き出しの殺意しかなかった。
杉山雨音は橘陸斗の腕の中で震え、縋りつくように訴える。
「陸斗、夕晴が狂ったの……私を殺そうとしたのよ!」
腕の中で泣く女を見下ろし、橘陸斗の胸中で怒りがまたしても煮え立つ。
五年前――杉山夕晴の企みによって、雨音は狂狼症を患った。
良くなったり悪くなったりを繰り返し、今なお苦しんでいる。
そのうえ今度は、実の姉にまで手をかけようとした。
「違う!」
杉山夕晴はよろめきながらも立ち上がり、杉山雨音を指さして叫ぶ。
「星ちゃんを突き落としたのはそいつよ!」
「黙れ」
橘陸斗は杉山雨音を脇のベンチへそっと座らせ、自分のコートを脱いで丁寧に包み込む。
そして振り返った瞬間、瞳の奥に残ったのは暴虐だけだった。
一歩、また一歩。
橘陸斗が杉山夕晴へ近づくたび、アルファの威圧が容赦なく押し寄せる。
息をすることさえ苦しい。
「お前じゃない?」
橘陸斗は嫌悪を隠そうともせず、彼女を見下ろした。
「俺はこの目で見た。お前が雨音を突き落とすところをな」
「私は突き落としてない……あの女が勝手に飛び降りたの……」
最後まで言い切る前に、腹へ激痛が突き抜けた。
橘陸斗の蹴りが、容赦なく杉山夕晴の腹部へめり込んだのだ。
彼女の体は吹き飛び、壁へ激突する。
凄まじい音が響いた。
ずるりと地面へ崩れ落ちた杉山夕晴は、内臓の欠片が混じった黒い血を吐き出した。
江崎渚が巻いてくれたばかりの包帯が弾け、鞭傷が再びぱっくり裂ける。
痛い。
臓腑が砕けたみたいだった。
けれど、それ以上に胸が痛い。
「陸斗……」
口いっぱいに血を溜めたまま、杉山夕晴はどうにか顔を上げ、愛してやまない男を見つめた。
「どうして……あなたは、いつも……私を信じてくれないの……」
「信じる?」
橘陸斗は冷笑し、歩み寄ると杉山夕晴の髪を掴み、そのまま雪の上から引きずるように持ち上げた。
頭皮が裂けるように痛む。
無理やり上を向かされた杉山夕晴は、あの凍てつく瞳を真正面から受ける。
「嘘しか吐かない毒婦をか?」
橘陸斗は歯を食いしばる。
「昔、お前は勝手に身を乱した。それだけでも最低だってのに、雨音にまで薬を盛って、はぐれ狼に辱めさせた。杉山夕晴――お前の血は、汚れきってる」
そう吐き捨てると、髪を放し、杉山夕晴を地面へ叩き落とす。
次いで軍靴を上げ、傷ついた右手を無慈悲に踏みつけた。
「ぁああ――ッ!」
骨の砕ける嫌な音が鳴り、杉山夕晴は悲鳴を上げる。
「その薄汚い手で雨音に触れたんだ。潰されて当然だろう」
靴底が、ぐりぐりと力を込めて傷口を踏みにじる。
階下の庭では、江崎渚が星ちゃんを背負い、医療室へ向かおうとしていた。
だが次の瞬間、杉山夕晴の絶叫が耳を裂く。
巨大な狼体が即座に跳び上がり、そのまま3階へ着地した。
橘陸斗の足元で蹂躙される杉山夕晴を見た途端、江崎渚の喉から低い唸りが漏れる。
駆け寄ろうとしたその前へ、階段室から橘家の近衛人狼が4人、どっとなだれ込んできた。
「どけッ!」
江崎渚は尾を薙ぎ払い、先頭の近衛を一撃で吹き飛ばす。
だが背には星ちゃんがいる。
残る人狼たちの攻撃を前にしても、大きく回避することができない。
守りながら戦うしかなく、一方的に打たれる場面さえ生まれた。
「夕晴……」
口元に血を滲ませながら、江崎渚は人の壁の向こう、わずか数歩先で起きている惨劇を見つめる。
助けられない。
暴君の前で、自分はただの笑いものだ。
杉山夕晴の意識が、少しずつ遠のいていく。
逃げて、と江崎渚に伝えたかった。
星ちゃんを連れて逃げてほしかった。
けれど喉の奥は血泡で塞がれ、声にならない。
足元の女を見下ろしながら、橘陸斗は少しも晴れない胸の内に苛立っていた。
快感などない。
あるのは、説明のつかない苛立ちだけ。
とくに、江崎渚が命さえ投げ出しかねない勢いで杉山夕晴を庇おうとする姿を見た瞬間、その苛立ちは怒りへ変わった。
この女に、何がある。
江崎一族の跡取りに、ここまで尊厳を捨てさせるような何が。
そのとき、ベンチのほうから杉山雨音の苦しげな声が上がる。
「陸斗……頭が、くらくらする……」
橘陸斗の目から、荒れ狂う暴威がすっと引いた。
杉山夕晴の手を踏みつけていた軍靴を退け、彼は足早に杉山雨音のもとへ戻る。
そしてその細い体を、横抱きに抱え上げた。
解放された杉山夕晴は、血だまりの中で痙攣する。
江崎渚の前を塞いでいた近衛たちは、命令を受けて無言のまま退いた。
江崎渚は星ちゃんを包んでいたマントを外し、自分のカシミヤのコートを地面に敷いて、その上へそっと星ちゃんを寝かせる。
それから杉山夕晴のそばへ駆け寄った。
へこんだ肋骨。
粉砕された右手。
それを見た瞬間、江崎渚の目は血のように赤く染まった。
橘陸斗を睨み据え、堪えきれず怒鳴る。
「橘陸斗! この大馬鹿が! お前は絶対に後悔する!」
「黙れ」
橘陸斗は足を止め、顔だけを横に向ける。
瞳には軽蔑しかない。
「江崎渚。お前の腹が何を考えてるか、俺が気づいてないとでも思ったか」
声は冷え切っていた。
「親父――江崎家のアルファの顔を立ててやってるから生かしてあるだけだ。今日、俺の近衛に手を出した件だけでも、本来なら今すぐ首を噛み切ってる」
橘陸斗は視線を戻しかけ、ふと地面に横たわる小さな体へ目を走らせた。
綿入りの上着に包まれた星ちゃんが、静かに眠るように横たわっている。
呼吸は弱い。
なぜだか、その姿を見た瞬間、胸の奥がきりりと痛んだ。
理由のわからない痛みだった。
橘陸斗の胸にもたれていた杉山雨音は、その視線に気づいて眉をひそめる。
そして、すぐに思いついた。
くるりと目を動かし、彼女は狂狼症が発作を起こしたように装って、正気を失ったふりのまま星ちゃんを指さし、取り乱した声で泣き出す。
「赤ちゃん……わたしの……」
橘陸斗は彼女の願いに逆らえない。
すぐさま傍らの近衛へ命じた。
「その子をこっちへ連れてこい」
