第5章
近衛の一人が即座に歩み寄り、地に転がる星ちゃんを抱き上げて、そのまま杉山雨音のもとへ運んだ。
「何してるの! その子を下ろせ!」
江崎渚が起き上がって奪い返そうとする。しかし別の近衛に肩口を押さえつけられ、床へねじ伏せられた。
物音に反応したのか、杉山夕晴が――母親の本能だけで――奇跡みたいに、瞼をほんの少しだけ開く。
見えた。
衛兵が、彼女の星ちゃんを、杉山雨音の手へ渡す瞬間。
杉山雨音は床に這いつくばる杉山夕晴を見下ろし、口元に勝ち誇った笑みを刻んだ。
橘陸斗の冷え切った声が落ちる。
「今日からその子は、雨音が育てる」
杉山夕晴の頭の中が、ぶわっと白く弾けた。
雨音が育てる。
自分の手で星ちゃんを投げ捨てた悪魔。遺伝子鑑定を改ざんした毒婦。そんな女が――娘の保護者になる?
「……や、だ……」
どこから湧いたのか分からない力で、夕晴は凍った床を爪で抉り、じり、じりと前へ這う。腹の下に血の筋が引きずられていく。
「星ちゃん……星ちゃんを、返して……」
その瞬間、杉山雨音の尖った爪が、音もなく星ちゃんの脇の柔らかい肉へ食い込み、ぐり、と捻った。
星ちゃんの身体がびくんと跳ね、痛みで目を覚ます。
「うわぁぁぁぁっ!」
泣き声がテラスに響き渡る。星ちゃんは目を見開き、必死に杉山雨音を押しのけようともがいた。
杉山雨音の瞳の奥を、陰湿な光がかすめる。爪は今度、腕へ容赦なく突き立てられた。なのに顔は、困り果てた母親のそれで。
「星ちゃん、いい子。ママが抱っこしてるから……怖くないよ」
刺すような痛みに、星ちゃんはさらに激しく泣きじゃくる。暗赤色の血が鼻から溢れ、頬の半分をべったり汚した。
「うるさい。耳障りだ」
橘陸斗が眉を寄せ、乱暴に杉山雨音の腕から星ちゃんを引ったくる。片手で、宙にぶら下げた。
小さな身体が空中でぶらぶら揺れる。
大きな瞳が、男の嫌悪を宿した氷青の眼とぶつかった。星ちゃんは恐怖で全身を震わせる。
「もう泣いたら殺す」
星ちゃんは喉の奥で、泣き声を全部のみ込んだ。
どこか見覚えのある男の顔を、呆然と見つめる。
ママが見せてくれた動画の中の――パパに、似てる。
なのに、どうしてパパが自分を殺すの?
鼻の奥がつんと熱くなり、涙がぽろぽろこぼれ落ちる。
星ちゃんが悪い子だから? 病気だから? だからパパは嫌いになったの?
床に倒れる母を見て、弱々しく呼ぶ。
「……ママ……」
その一声が、杉山夕晴の全身を震わせた。胸の奥が裂けるみたいに痛い。
「陸斗、帰りましょう」
杉山雨音がそっと橘陸斗の小腕に手を添える。
「風が強い……寒いの」
その言葉に、橘陸斗の周囲に渦巻く殺気が、わずかに鎮まった。
彼は手首を雑に返し、星ちゃんを床へ放り投げる。
「……っ!」
鈍い衝撃音。小さな身体が氷の床に叩きつけられ、強烈な痛みで星ちゃんは咳き込み、血の泡を何度も吐いた。
橘陸斗は背を向け、黒いコートを脱ぐと、丁寧に杉山雨音の肩へかける。吹雪が一切触れないように覆い隠して。
「行こう。帰るぞ」
橘陸斗は杉山雨音を抱き寄せ、傍らの近衛へ命じた。
「床のそれも連れていけ。今日からあれは雨音の玩具だ。生かすも殺すも、殴るも罵るも、雨音の好きにしろ」
「だめ――っ!」
杉山夕晴はようやく橘陸斗の足元まで這い寄り、必死に顔を上げた。
「連れていかないで……!」
「病気なの……狼魂枯渇症なの……!」
「陸斗、お願い……私の命ならあげる! 全部、杉山雨音に渡してもいい! だから星ちゃんだけは……入院しなきゃ死ぬの!」
橘陸斗は見下ろした。
足元で這いつくばる、みじめな女を。
かつて、あれほど誇り高く歯向かってきた杉山夕晴が、今は犬みたいに伏して懇願している。しかも――他の男との間に作った雑種のために。
「狼魂枯渇症?」
橘陸斗が冷たく笑う。
「狼魂すら目覚めてない雑種が、そんな病名を名乗れると思うな。上級の純血だけが抱える遺伝欠陥だ。適当な嘘で俺を騙せるとでも?」
杉山夕晴は痛みで全身が痙攣した。
苦笑が漏れる。唇の隙間から、血の泡がぷつぷつ弾けた。
星ちゃんは、橘陸斗――黒焔の戦狼の、あまりに強い血を受け継いだ。母体の中で必要な力を十分に得られず、胎内のまま絶症を抱え込んだ。
血の繋がりを示すはずの証が、今は彼に嘲笑される材料になっている。
「嘘じゃない……あの子は、本当にあなたの子……!」
「まだ言うか!」
橘陸斗の瞳に、怒りの火が一気に燃え上がった。
彼は脚を引き、勢いのまま夕晴の身体へ蹴りを叩き込む。
ぐん、と衝撃。杉山夕晴は弾き飛ばされた。
「くっ……!」
江崎渚の目が裂けそうに見開かれる。北風の狼魂の威圧が爆ぜ、押さえつけていた近衛を吹き飛ばした。
渚は飛び込み、夕晴を抱きとめる。
「橘陸斗、お前は狂ってる! それ以上、思い込みにしがみついたら……一生後悔するぞ!」
橘陸斗は抱き合う二人を冷たく見据え、胸の奥に黒い苛立ちが溜まっていくのを感じた。
「杉山夕晴。よく聞け」
吐き捨てる。
「その雑種を裏山に捨てて野獣の餌にしなかっただけでも、ありがたく思え」
彼は杉山雨音の肩を抱き直し、階段口へ向き直った。
「雨音が飼うと言ってやってるんだ。感謝して地に額を擦れ」
近衛が星ちゃんを抱え、二人の後ろを早足で追う。
星ちゃんの小さな頭は力なく垂れ、もう意識はなかった。
冷たい風が雪片を巻き上げ、杉山夕晴の血だらけの顔を容赦なく叩く。
娘が、連れていかれる。
こうして、奪われていく。
「……星、ちゃん……」
夕晴は乾ききった唇を動かすが、声にならない。
去っていく背中を見つめたまま、瞳の光が少しずつ薄れていく。最後には、何も映さない死んだ色へ沈んだ。
「夕晴! 夕晴、俺を見ろ! 寝るな、頼むから……!」
江崎渚は狼狽えながら、胸元から溢れ続ける血を両手で必死に押さえ、コートの内側から携帯していた応急薬を掴み出した。
けれど、身体はもうぼろぼろだった。この程度の治癒では、追いつかない。
杉山夕晴は、何の反応も返さない。
右手は粉砕。左手は潰れ、肋骨は折れ尽くしている。
それでも、肉体の痛みなんて――胸の痛みに比べれば、取るに足りなかった。
耳元の叫び声が、だんだん遠ざかっていく。
朦朧とする意識の底で、杉山夕晴は嗅いだ。暗黒の森の匂いを。
群れのデッドゾーン。
生まれたばかりの彼女は、ぼろ布に包まれて、日も差さない常闇の密林へ捨てられた。
周囲には、成体の人狼ですら引き裂くほどの凶暴な獣ばかりで――。
