第6章
だが、眼を血のように染めた巨躯の獣たちは――その弱々しい子を、ひと口で呑み込んだりはしなかった。
子を失った母熊が、ぬくい舌で彼女の頬の泥を舐め取る。煤けた森の闇の奥、いくつもの獣の瞳が夜に光り、彼女を囲んで見張っていた。
獣のほうが、人狼よりよほど情を知っている。
彼女は獣が運んできた生肉と木の実で腹を満たし、日ごとに背を伸ばした。星ちゃんと同じくらいの年頃になるころには、野草みたいに荒々しく、踏まれても折れないしぶとさを身につけていた。
雨の降る黄昏。泥沼の縁で、彼女はひとりの少年を見つけた。
少年は、上等なはずの絹をぼろ布みたいにまとっていた。胸元には骨が見えるほど深い爪痕。乾ききった暗赤の血が両目を塗りつぶしている。
――目が、見えないんだ。
杉山夕晴は細い腕で、引きずるようにして彼を自分の棲み処――木のうろへと連れ帰った。
母熊が傷を癒すのを真似て、苦い薬草を噛み潰し、少しずつ傷に塗りつける。さらに、自分が食べるのを惜しんで取っておいた野兎の半身を、彼の手に押し込んだ。
少年の全身は張りつめていた。いつでも敵の喉を噛み切るつもりの、追い詰められた獣みたいに。
「……お前、誰だ」
掠れた声。虚ろな眼が、警戒するように彼女のほうへ向く。
外では雨が滝のように降り、葉を伝った水が枯れ木を叩いて、ばさばさと音を立てていた。
彼女は首をかしげ、降りしきる雨糸を見上げ――生まれて初めて、自分に名を与えた。
「雨。あたし、雨ちゃん」
六か月。まる百八十日、昼も夜も。
盲目の少年と、野蛮に育った少女は、狭い木のうろに身を寄せて体温を分け合った。
彼は見えない。けれど、まだ幼さの残る声で、確かな調子で外の世界を語ってくれた。
平らな道をびゅんびゅん走る鉄の箱。天井に吊るされ、決して消えない硝子の灯。――それから、砂糖菓子というもの。
夕晴は夢中で聞いた。灰銀の狼耳がぴくり、ぴくりと動くたび、外の世界への憧れが胸いっぱいに膨らんでいく。
「雨ちゃん。俺の傷が治ったら、外へ連れていく」
少年は手探りで彼女の頬に触れた。
「毎日、飴を買ってやる」
その言葉を、杉山夕晴は一生忘れなかった。だからこそ、一生苦しむことになった。
――あれは、彼女の人生でいちばん温かな時間。
事故が起きたのは、雨が上がった朝だった。
その日、運がよかった。森の端で野生の蜂の巣を見つけたのだ。
橘陸斗に蜂蜜を食べさせたくて、彼女は毒蜂に刺されて頭じゅうがぼこぼこになり、顔までぱんぱんに腫れた。
それでも痛みなど気にせず、蜜が滴る蜂の巣を抱えて走った。
だが、ツリーハウスは空っぽだった。干し草の山に残っていたはずの、橘陸斗の体温が消えている。
匂いも、風の中で薄れていく。
夕晴は蜂の巣を取り落とし、残りかすみたいな匂いを頼りに追いかけた。走って、走って――自分を何年も守ってくれた森を、ついに抜け出してしまう。
外には硝子の灯もない。飴もない。
待っていたのは、数えきれない冷たい視線と、容赦のない嘲りと振り下ろされる棍棒だった。
彼を探すために、彼女は卑しいはぐれ狼になった。
腹が減ればゴミ箱を漁り、喉が渇けば泥溜まりに腹ばいになって雨水を啜った。
十年。人狼の世界でいちばん暗い隅っこを這い回り、何度も喧嘩と殺し合いをくぐって、身体も魂もますます強靭になっていった。
そして、あの日――再び大雨が降った。
彼女は腕の中の、腐りかけた肉団子の半切れを守ろうとして、三匹の成獣のはぐれ狼に路地裏へ押し倒された。汚水の中で噛み裂かれ、引きずり回される。
肋骨は三本折れ、左脚の肉がごっそり剥がれた。
息が途切れそうになった、そのとき。
黒いスーツの護衛たちが現れた。
救ってくれるのかと思った。違った。
彼らは彼女の首に鉄鎖を掛け、死にかけの犬でも引きずるみたいに、杉山家屋敷へと引きずり込んだ。
過去の映像が脳内を高速で駆け抜ける。眩しい水晶のシャンデリアが揺れて、目を開けていられない。
杉山の群れのアルファは高みから彼女を見下ろし、腐肉でも眺めるような目で値踏みした。
「はっ。あの恥知らずのはぐれ狼女と瓜二つじゃねえか! あの頃、敵に薬を盛られてなきゃ、あんな下種に触れるわけがねえ!」
男は露骨に顔をしかめ、背を向けた。
「洗って、医療室に放り込め。雨音の狼魂は先天的に弱い。同じ血筋の血袋で温める必要がある」
その日、流れ者の子は、自分の出自を知った。
自分は暗黒の森にいるのが当然の雑種なんかじゃない。
杉山の群れアルファの――実の娘だった。
生まれたその日に、父親は「血が穢れている」と切り捨て、猛獣の出る禁足地へ捨てたのだ。
生き延びられたのは、森で生肉を食み血を啜る獣たちのおかげだったなんて。
記憶の棘が一斉に尖り、脳髄を突き刺した。
十年の命を削って、ひとつの約束に縋った。
――それで、何を手に入れた?
月神は彼女を橘陸斗の運命の番にした。なのに橘陸斗は、杉山雨音こそが「雨」と名乗った命の恩人だと信じ込んだ。
心を全部差し出したのに、彼は踏みにじった。挙げ句、命がけで産んだ娘まで奪い、彼女からすべてを奪った杉山雨音の機嫌を取るために使った。
「橘陸斗……」
激痛が夕晴を回想から叩き起こす。
杉山夕晴はがばりと目を見開いた。死んだような瞳の奥に、ぞっとする血の光が滲む。
江崎渚の手を乱暴に払いのけ、雪の上に突っ伏して――ぶはっと、臓腑の欠片を混ぜた黒い血を吐いた。
背後で、灰銀の幽影の狼魂が天へ向かって、裂けるような哀鳴を上げる。
……
橘邸。上等な沈香が暖炉でぱちぱちと爆ぜていた。
ロールスロイスのエンジン音が止むや否や、橘陸斗は主寝室の扉を蹴り開けた。
廊下を早足で突っ切り、腕の中には弱りきった杉山雨音を抱えている。
「永井先生!」
橘陸斗は雨音を大きなベッドに寝かせると、扉の外へ向けて低く怒鳴った。
医療鞄を提えた家庭医が、転げ込むように駆け込んでくる。額の冷や汗を拭う余裕もなく、震える手で聴診器を取り出した。
杉山雨音は枕に身を預け、顔色は紙のように白い。
橘陸斗のアルファの精神感知には、彼女の頭上に浮かぶ狼魂の影が、今にも消えそうなほど暗く映っていた。弱々しく輪を描き、くぅん、くぅんと泣いている。
「陸斗……妹を責めないで……」
目尻から涙がひと筋落ちる。
「彼女……一瞬、カッとなっただけで……私を押したの……あなた、怒らないで……」
杉山夕晴の名が出た瞬間、橘陸斗の顔色が沈んだ。
「妹? あいつが、お前の妹だと?」
橘陸斗は雨音の手を握り返す。
「十数年前、暗黒の森で……お前が助けてくれなきゃ、俺は死んでた。たとえ夕晴が俺の運命の番だとしても、お前に手を上げた時点で終わりだ。俺は許さない」
杉山雨音は俯き、垂れた髪が口元を隠した。そこに浮かぶ笑みも、見せないまま。
十年前、橘陸斗を救ったのは杉山夕晴だ。だが今、橘陸斗が信じるのは杉山雨音だけ。
本物の恩人である夕晴は――この先も泥の中で朽ちればいい。
寝室の扉がノックされた。
護衛の橘瑛介が立っていた。大柄な体で、小さな少女を抱えている。
星ちゃんだった。
呼吸はかすかだ。橘瑛介が哀れに思ってこっそり治癒薬を飲ませていなければ、とっくに死んでいてもおかしくない。
橘陸斗は振り返り、星ちゃんを見るなり眉を寄せた。
「その汚物を外へ出せ」
橘瑛介はその場で固まった。喉仏が、ごくりと動く。
「アルファ……この子は、どう処置を……」
「処置?」
橘陸斗は、杉山夕晴に少し似たその顔を見て、露骨な嫌悪を滲ませた。
「裏庭の地下牢に、狂狼が何頭かいたな」
彼はゆっくり袖口を整える。
橘瑛介の胃が、ずしりと沈む。
「……はい。数日前に捕らえた流浪の狂狼です。もう理性がなく、動くものなら何でも噛みます」
「ちょうどいい」
橘陸斗は冷たく言い放った。
「その雑種を放り込め。あの畜生ども、何日も腹を空かせてる。追加の餌だ」
