第1章
佐藤美咲は、とても長い夢を見た。十九歳に戻った夢だ。必死で映像芸術学院に合格した、あの年。人生は希望に満ち、情熱に満ちていて、まぶしい青春がこちらへ手を振っていた。
あまりにも現実みたいで――目を覚ましたくなかった。あの冷え切った世界と向き合うくらいなら、ずっと夢の中にいたかった。
火の海で意識が途切れる、その一秒前。彼女は思っていた。
――ついに、あの人は私を殺したんだ。
佐藤美咲は寝癖だらけの髪のまま、二段ベッドの上段にあぐらをかいて座っていた。寮の部屋では、口紅を引いている女子が一人。もう一人は浴室から慌ただしく出てきて、スカートを引っ張って整えながら、胸元にパッドを押し込んでいる。斜め向かいのベッドでは、長ズボンを履いている女子がいた。
三人とも自分の支度に夢中で、佐藤美咲のほうなんて見もしない。
胸の奥がざわついたまま、しばらく動けなかった。手を伸ばしてベッドの柵を掴む。木の感触が、あまりにも生々しい。
思わず口を開く。
「……おはよう。真由、彩、明里」
三人がぴたりと手を止め、揃って佐藤美咲を一瞥した。鈴木明里は気性の荒いタイプで、鼻で笑う。
「なに馴れ馴れしくしてんの? あたしたち、あんたと遊ぶ資格ないんでしょ。阿部家の“血の繋がってない妹”さん」
佐藤美咲は息を呑んだ。思い出したのだ。
義姉の高橋詩織は今年二年生。義兄の阿部蓮の後押しで大型コンテンツの二番手の女性役を掴み、撮影中に阿部蓮が何度も差し入れに来た。そこへ人気若手の山田隼人との曖昧な噂まで重なって、作品が終わる前に本人だけが先に爆発的に注目を浴びた。三日と空けずトレンド入りし、話題は尽きない。
佐藤美咲がこの学校に入ってからというもの、どこへ行っても詩織の影に押し潰される。しかも阿部蓮の露骨な肩入れ――そのせいで佐藤美咲は、どれほど笑いものにされたか。
この部屋の三人のルームメイトも、佐藤美咲に対して複雑な感情を抱いていた。佐藤美咲は居心地が悪くて、入寮してすぐに彼女たちと大喧嘩になった。口論の勢いで、ひどい言葉もいくつも吐いた。
彼女たちがいちばん嘲笑したのは、きっとあれだ。
「私は阿部家の子なの!」
――阿部家の子なら、なんで阿部蓮がドラマ一本用意してヒロインにしてくれないの?
――同じ寮にいるのに、阿部蓮は詩織には会いに来て、あんたには来ないじゃん?
明里たちは佐藤美咲を「笑い話」だと思っていた。なのに本人が偉そうにするから、余計に癇に障る。
嘲るように言い捨てると、鈴木明里は田中真由と伊藤彩を引っ張って部屋を出ていき、ドンッと乱暴にドアを閉めた。
佐藤美咲は一人、ベッドの上で呆然とする。
確認するまでもない。夢じゃない。
――私は、十九歳のこの年に戻ってきた。
金城市映像芸術学院に、合格した年。
人生が、始まったばかりの年。
あの胸糞の悪い経験も、人を見る目のなさも、苦しい前世も――全部、ここで埋められたのだろうか。
佐藤美咲はまだ夢の続きを疑って、ぱっと上段から降りると、部屋の中をうろうろ歩き回った。机に触れ、椅子に触れ、壁に触れ、最後に勢いよくドアを開けて、パジャマのまま廊下へ飛び出す。
授業開始のベルが、リンリンリンと鳴っていた。
そよ風が頬を撫で、空気がやけに澄んでいる。
佐藤美咲は胸が高鳴って、階段を駆け下りた。踊り場に差しかかった瞬間、黒いSUVがこちらへ滑り込んでくるのが見えた。
反射的に壁へ身を寄せる。
降りてきたのは軍靴。まっすぐな長い脚を軍パンが包み、広い肩と細い腰。眉目の鋭さに、刃みたいな気配を纏う男――阿部家の長男、阿部蓮。
女という女を狂わせる、と噂される男。
彼は佐藤美咲をちらりと見た。
佐藤美咲の背筋が凍る。義兄のことが怖い。どんな考えも感情も、彼の前では隠しようがない。全部見透かされる。
だからこそ、前世の私は――あの人の前で、あんなにも惨めに転げ落ちた。
阿部蓮は佐藤美咲を一瞥しただけで視線を外し、階段を上がっていく。
佐藤美咲は壁に張りついたまま、彼が通り過ぎるのを待った。緊張しすぎて、挨拶するのも忘れてしまう。
すると阿部蓮が二段ほど上がったところで足を止め、もう一度だけ佐藤美咲を見下ろした。
佐藤美咲は逃げようとして、視線が合って動けなくなる。慌てて手を上げ、ぎこちなく言った。
「……蓮お兄ちゃん」
阿部蓮は軽く頷く。
「今日は授業は?」
「あります、あります……っ! やばい、授業!」
佐藤美咲は悲鳴を上げ、彼の横をすり抜けて階段を駆け上がった。明里たちがあんなに急いで出ていったのも、出席を取られるからだ。
阿部蓮はその場に立ったまま、勢いよく駆け上がっていく少女の背中を見送った。眉間の皺が、わずかに寄る。
佐藤美咲は部屋へ飛び込み、ガチャガチャと音を立てて着替えながら考える。
阿部蓮は本当に偏っている。今日も詩織に会いに来た。
でも、責められない。悪いのは、前世の私だ。あまりにも愚かで、思っていることを全部顔に出していた。
私は母の実子じゃない。母の亡夫が拾ってきた子どもだ。
普通の暮らしを手に入れる前、私は下町の路地裏で泥だらけになって生きていた。食べるものも寝る場所も安定しない日々。やがて「父」が私を連れ帰って養子にしてくれたけれど、幸せは長く続かなかった。父は亡くなり、残されたのは母と私だけ。
母は上品で儚くて、まるで籠の中の小鳥みたいだった。稼ぐのも得意じゃない。二人はまた生活に追い詰められた。
そんなとき、阿部誠が母に目をつけた。母の顔立ちが、彼の亡くなった妻にどことなく似ていたからだ。母は阿部家に嫁ぎ、私も一緒に阿部家へ入った。衣食住に困らない暮らしが、突然手に入った。
失うものが多すぎたせいで、私は目の前のすべてにしがみついた。母が老いるのが怖くて、安心して暮らせる場所がなくなるのが怖くて、全部を詩織に奪われるのが怖かった。
だから阿部蓮に媚びた。母にも言った。「阿部家のものを掴んで離しちゃダメ」って。売れるためなら手段を選ばなくなった。
そして最後は、心も体も全部間違えたまま――火の海に呑まれた。
意識があるうち、炎が皮膚を舐めるたびに、ジジッと音がした。まるで肉を焼くみたいに。
――もう、二度と。
スキンヘッドの教授は容赦がない。出席がなければ即、平常点を引く。佐藤美咲は必死に走ったが間に合わなかった。前世ならそのままサボっただろう。けれど今世は違う。
前世の私は演技をきちんと学ばなかったせいで、「演技ヘタ」「飾り物」「笑いもの」の三つの札を貼られ続けた。確かに売れた。けれど、いわゆる炎上での知名度だった。
笑いものにするために番組に呼ばれ、山奥に一晩置き去りにされたこともある。あのときは崖から飛び降りたいと思った。全部終わらせたかった。
それでも「死ぬより生きるほうがマシだ」と自分に言い聞かせ、いつか逆転できる日を祈った。待っていたのは逆転じゃない。火の海だった。
専門科目は厳密だ。この時間は台詞の授業。明里たちが三席を占領し、他の学生もぎゅうぎゅうに固まっていて空席がない。
佐藤美咲は厚かましく笑いながら明里の横にねじ込んで、無理やり一席分の隙間を作った。明里が睨みつけてくる。
スキンヘッドの教授の視線が、ゆっくり佐藤美咲へ向いた。手元の台本をぱらぱらめくり、言う。
「遅刻した君。前へ出て、この歌を読め」
教室中の視線が一斉に佐藤美咲へ刺さった。多くは面白がる目だ。佐藤美咲は金城市映像芸術学院の“ネタ”だったから。
佐藤美咲は一瞬固まったが、教授の視線に促されて立ち上がり、前へ出る。台本に載っていたのは、重陽の節句の夜、会えない相手を思って詠んだ和歌――和泉式部の『秋の夜』だった。
会えない寂しさと、募る恋しさ。胸の内を、秋の夜に沈めた歌。
前世の大学時代、授業を真面目に受けた時期もあった。けれど詩織に刺激されてからは、どうすれば早く売れるか、そればかり。授業はぽろぽろ落としていった。
教授が佐藤美咲を見下ろす。
「どうした?」
