第2章

佐藤美咲は先に笑った。もともと顔立ちは悪くない。わざと弱みを見せるように、へらりと笑って言う。

「先生、ちゃんと読みます。足りないところ、教えてください。下手でも怒らないでくださいね」

スキンヘッドの教授は一瞬ぽかんとしたが、彼女を見ているうちに妙に感心したようで、表情が少しだけ和らいだ。

「いいだろう」

この学生のことは覚えている。顔は目立つ。だが性格はなかなかのじゃじゃ馬で、入学してまだ日が浅いのに、すでに3回も欠席していた。

教室の連中は最初、面白がって笑う気満々だった。ところが佐藤美咲のこの低姿勢に、喉元まで出かけた嘲りが引っ込んでしまう。みんな揃って、苦い虫でも噛み潰したような顔だ。

佐藤美咲は台本を受け取り、こほんと咳払いをひとつ。

――本当のところ、彼女はもう何年も、まともに台詞を読んでいない。

演技も台詞も弱い。撮影に入れば、カメラの前で「123456」とだけ言わされ、あとは後から吹き替え。以前、誰かが彼女を叩くために、現場で「123456」を口にしている動画をネットに流したことがあった。全国の視聴者に一か月以上も笑いものにされ、挙げ句の果てには『どうやって卒業したんだ』とまで言われた。

業界には「123456」をやらされる役者なんていくらでもいる。なのに、徹底的に晒され、徹底的に嘲られたのは、なぜか彼女だけだった。

今回の課題は、和泉式部の和歌。幾度もの恋を重ねた彼女の中でも、とりわけ語り草なのが敦道親王との恋だ。互いに惹かれ合い、長く深い情を交わし、胸を打つ歌をいくつも残した。

選ばれた一首も、まさに相手を思い焦がれる情を詠んだもの。

和泉式部は、酒に想いを預けるのが巧い。朗読も、ただ平坦に読み下すだけじゃ駄目だ。ほんのり酔いが回った気配と、恋しさが霞のようにまとわりつく、あの曖昧で甘い余韻――それを声に滲ませる。柔らかく、どこかとろんとした調子で。言葉の奥に隠した秘めた想いが、聞く者の心に触れるように。

佐藤美咲は一通り目を通すと、すぐには読み始めず、すとんと座った。

ざわっ。

見物気分だったクラスメートも、スキンヘッドの教授も、揃って固まる。

佐藤美咲は教授に笑いかけ、さらりと言い訳した。

「ちょっと、感覚を探します」

教授の目に、面白がるような励ましが宿る。どんな“感覚”を探すつもりだ。こんなに芝居がかった学生は見たことがない。

佐藤美咲は笑みを崩さないまま、隣の席の学生をぐいっと引っ張った。

「ねえ、クラスメート。太もも、ちょっと貸して」

引っ張られた男子学生は、顔を真っ赤にして、もじもじしながらこくこく頷く。

その顔を見て、佐藤美咲は一瞬固まった。

――まずい。未来の若手実力派アイドル俳優、山田悠真じゃない。

思わず見つめてしまうと、山田悠真は恥ずかしそうに小声で訊く。

「……こう座ってればいい?」

彼はあぐらをかいている。佐藤美咲は慌てて頷いた。

「うん、いい、いい」

それから気まずそうに笑って、

「ごめんね……」

そう言うなり、ぱたりと倒れ、山田悠真の太ももを枕にした。

山田悠真の体がびくっと硬直する。周囲の視線が、興味津々で佐藤美咲に集まった。

佐藤美咲は台本を胸元に垂らすように持ち、片手でそっと支えると、朗読を始める。

「秋の夜に あなたを思えば 酒の香も 涙に変わり 袖を濡らす」

読みながら、指先がふわりと揺れた。気ままに酔い歩くみたいな仕草。声にはほのかな酔いが滲み、恋しい人を思う切なさが、言葉の端々から溢れ出す。

読み終えたとき、佐藤美咲はまるで平安の世に紛れ込み、自分が和泉式部になったかのように、その情景へ深く沈んでいた。

にこにこと目を開け、教授を見る。

教授は、ここまで場面を作ってくるとは思っていなかったのだろう。しかも声も感情も乗っている。ふざけているのではなく、真剣に指名に応えたのが伝わってきて、胸を打たれたような顔になった。

教授は腰を折って佐藤美咲を起こし、言う。

「場面づくりは悪くない。ただ、まだ練習が必要だ。流れが少し途切れる。間の取り方、抑えてから上げる……そこを意識しろ」

佐藤美咲は素直に頷いた。

「はい。ありがとうございます、先生」

その出来が思いのほか悪くなかったからだろう。教授は佐藤美咲の平常点をこれ以上引かなかった。欠席で削った分はすでに少なくないが、今回は少しだけ情けをかけたらしい。同時に、この学生への関心も、ほんのわずか上がった。

真剣に取り組むこと。それが今の学生にいちばん欠けている、と教授は思っている。

金城市映像芸術学院の学生は全国から集まる。偏差値も高い。すでに名の知られた若手役者が、肩書きとして卒業証書を欲しがって入ってくることも珍しくない。名門であるがゆえに、皆どこか「最初から勝っている」気分で、在学中から平気で現場に出て、撮影で名を売る。

その結果、授業を軽んじる者も出る。露骨に舐める者さえいる。

だからこそ、真剣さが重要なのだ。

授業が終わると、何人もの学生が佐藤美咲を信じられないものを見る目で見た。入学してからずっと、阿部家の肩書きを振りかざして周囲をねじ伏せようとしていた阿部家のお嬢様が――今日は珍しく、まともなことをした。それも、教授に褒められる程度には。

佐藤美咲は鈴木明里と関係を作るつもりで、2限もまた鈴木明里の横へねじ込んだ。伊藤彩と田中真由は、まるで粘着質な飴でも見るみたいに、道中ずっと白い目を向けてくる。

四人は押したり押されたりしながらも、どこか少しだけ空気が緩み、食堂へ向かった。

食堂へ行くには図書館の前を通る。そこへ、図書館の階段をゆっくり降りてくる女がいた。淡い紫のスカート。雪みたいに白い肌。笑うと唇の端に小さなえくぼが浮かび、整った小顔がやけに目を引く。

鈴木明里たちは足を止め、揃って佐藤美咲を見た。目には露骨な嘲り。

佐藤美咲は内心ため息をつく。――挨拶、しておくべきか。

鈴木明里が、面白がるように口を開いた。

「阿部家のお嬢様じゃん。お姉さまに挨拶しないの? お姉さまに不満でもあるわけ?」

佐藤美咲は白目をむいた。

「姉に不満なんて、あるわけないでしょ」

そう言い返した、その瞬間。

黒いSUVがすっと滑り込んできて、ちょうど高橋詩織の前で止まった。運転席にはサングラスの阿部蓮。片手をハンドルにかけたまま、高橋詩織に何か言っている。

鈴木明里たち三人の顔色が、さらに面白いことになる。視線が佐藤美咲へ刺さった。

この角度なら、阿部蓮も高橋詩織も佐藤美咲が見えているはずだ。だが二人は、まるでそこに誰もいないみたいに振る舞った。

鈴木明里が堪えきれずに笑う。その笑い声が、ぱんぱんと佐藤美咲の頬を叩くみたいに響いた。

伊藤彩が、ちぇっと舌打ちする。

「これが差ってやつ。片方は手のひらで大事にされて、片方は透明人間扱い」

佐藤美咲は、ふうと息を吐いた。

前の人生なら、胸の奥がどろどろに煮えたはずだ。けれど今は、心が妙に静かだった。阿部蓮の機嫌を取って取り入るなんて、そんな簡単な話じゃない。前世で高橋詩織はずっと阿部蓮を愛していたが、阿部蓮は高橋詩織を恋愛対象としては見ていない。ただの妹として扱っている。

阿部蓮の母――阿部誠の心に「忘れられない人」として棲みついたあの女には、かつて一人の娘がいた。だが、その子は生まれてこなかった。

阿部蓮は高橋詩織を、その「いなかった妹」の影として抱えている。高橋詩織の想いは水みたいに流れて、もう戻らない。

それに、佐藤美咲が阿部家に来たばかりの頃、阿部蓮だって彼女を少しは可愛がったのだ。壊したのは佐藤美咲自身――自分で自分を追い詰めて、全部台無しにしただけ。

前世の自分は、あまりにも多くを他人に期待しすぎた。だから最後は、あんなふうに死んだ。

炎に焼かれる痛みなんて、知っているのは自分だけだ。

鈴木明里はさらに嘲ろうとした。だが佐藤美咲がふと遠い目をして、瞳の奥にかすかな悲しみを滲ませたのを見て、口を開きかけたまま止まる。

結局、言いかけた嘲りは、喉の奥へ飲み込んだ。

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