第5章
前世の彼女は、死ぬその瞬間まで、本当の友だちと呼べる相手が一人もいなかった。大学ではまともに人付き合いを築けず、芸能界に入ってからはなおさらだ。足の引っ張り合いは苛烈で、彼女は悪評で名を上げた側――しかも悪評ばかりが目立っていた。少しでも関わっただけで一緒に沈みかねない。だから誰も、進んで友だちになろうとはしなかった。
鈴木明里は、佐藤美咲がずっとニコニコしているのを見て、どうにも腑に落ちなかった。昨夜は配信で視聴者と口げんかしていたのに、今日は別人みたいだ。
少し考えてから、明里が訊く。
「佐藤美咲、もう配信しないの?」
美咲は笑って答えた。
「配信? うん、ちょっと間を空けてからにする」
「……また泣けって言われたら?」
「泣くよ。泣いて見せる。あいつらの財布、空っぽにしてやる」
「……」
明里は無言のまま、歩く速度を上げた。
美咲は一瞬きょとんとして、慌てて追いかける。
「明里さん、待って!」
「うるさい! お姉さまって呼ぶな!」
明里が怒鳴り、二人は前後になってコンビニへ駆け出した。若さは軽く、息は弾む。未来は、まだいくらでも広がっている。
伊藤彩は佐藤美咲が来たのを見ると、露骨に嫌そうな顔をした。けれど明里に約束してしまった以上、渋々身体をずらして明里の席を空ける。さらに美咲が差し出したアイスキャンディーを受け取りながら、皮肉を添えた。
「うちらは普通の人。あんたみたいな家が強い子とは違うんだから。ついてくるなら、姫扱いしてもらえると思わないでよ」
「わかってる、わかってる。そもそも姫じゃないし」
美咲は少し意外そうに目を瞬かせ、それからへらっと笑って手を振り、弱い立場を作った。
彩は白目をむき、明里の腕を引いて本を開く。
それからの日々、佐藤美咲はサボり癖をきっぱり改めた。毎日きっちり授業に出て、朝も早起きして軽く身体を動かす。演劇学科は朝に発声と台詞の練習がある。寮でも廊下でも庭でも、あちこちで誰かが声を出していた。
前世の美咲は、朝起きること自体がほとんどなかった。明里と並んで発声していると、喉の奥がじんと熱くなるような感覚がある。変化は周囲にも伝わっていて、寮の人間はもちろん、彼女を知る者たちも「最近おとなしい」「変な騒ぎを起こさなくなった」と口にした。中には「薬でも間違えて飲んだのか?」と笑う者までいる。授業をサボらない。自分を姫だと言わない。
そんなふうに日が流れ、週末が来た。
今月の生活費は、前に使い切ってしまっていた。食堂カードに残っている分は引き出せない。手元にあるのは硬貨が二枚、合わせて10円だけ。
母に薬も買ってやりたい。だからこっそり配信アプリを開き、換金しようとした。
配信をどうするか考え込んでいたせいで、あの夜からほぼ三日、ログインしていない。久しぶりに入った途端、DMが雪崩みたいに押し寄せた。中身は罵倒ばかり。
その中で、やけに長文のDMが目に留まる。
『別にお前の配信なんか見たくて見てるわけじゃないんだけど? 高橋詩織が見たいだけ。お前って高橋詩織のこと嫌いでしょ。そりゃそうだよね、阿部家の長男がどんだけ詩織のこと好きか。今回軍区から戻ってきてから何度も会いに行ってるのに、お前には一回も来ないじゃん。姫気取りもいい加減にしろよ、笑』
同じ学校の人間だ。文面から、妙に事情に詳しすぎる。
そのDMをしばらく見つめているうちに、佐藤美咲の指先がじわりと冷えた。視線が、斜め向かいのベッドへ滑る。
一度人生をやり直して、伊藤彩が後に使うSNSの裏アカウントを知っていなければ、これが彩だなんて気づかなかっただろう。
ここ数日、四人の空気は悪くなかった。だから少し浮かれていたのかもしれない。自分にも友情が手に入ったのだと――。
けれど、このDMは容赦なく現実を叩きつけてきた。冷たい水を頭から浴びせられたみたいに。
美咲はしばらく沈んだ気持ちになり、それからDM画面を閉じて、アカウントの残高を確認した。
……少ない。たった1万。
高いギフトなんて誰も投げていない。せいぜい10円の積み重ねだろう。以前、あるサイトで高橋詩織の投げ銭を見たことがある。1時間で20万。
比べるだけ無駄だ。けれど今の自分は、所持金10円。1万は大金だった。
阿部家は、女の子二人に対して決してケチではない。阿部家に入ってから、身なりを整えさせ、成長資金も用意し、定期的に貯蓄や運用までしてくれる。毎月の小遣いも5万から10万。足りなければ阿部蓮に言え、という形だった。
阿部蓮が数年前まで軍にいた頃は忙しくて連絡が取りづらく、手配は阿部家の秘書が担っていた。
阿部誠は、こういう細々したことにはほとんど関与しない。二人を一番管理していたのは、むしろ阿部蓮だ。
阿部蓮に金の話をする。あの圧のある気配と向き合う。
そう思っただけで、美咲はぶるっと身震いした。ノートパソコンをさっと片づけてリュックに押し込み、部屋を出る。帰宅するために。
阿部家の別荘は城北区十二番地。学校から車なら遠くないが、あそこは名士のための一帯だ。車がないと入りづらいほど、木々がふんだんに植えられていて、道がやたらと長い。まるで人里離れた場所のように、見渡す限り木々が広がっている。
以前の美咲は、帰るときは運転手を呼ぶか、あるいは高橋詩織の車に乗せてもらっていた。内心は不満でも、この距離を歩くのは現実的じゃない。それに、見栄もあった。この身分にしがみついていた。
でも今回は違う。
美咲は地下鉄で城北区のB出口まで行き、地上に出ると、出口前でシェアサイクルを借りた。リュックを背負って、ゆっくりペダルを踏む。城北区十二番地の標識を曲がり、のんびり、のんびりと進んでいった。
……
阿部蓮はここ数年、城北区の軍区へ戻され、家に寄りやすくなった。そのぶん、二人の妹にも少し気を配るようになっている。
今日、恵子おばさんからわざわざ電話が入り、佐藤美咲が週末に帰ってくると聞いた。阿部蓮は高橋詩織を迎えに行ったものの、すぐには車を出さなかった。
ハンドルに手を置いたまま、冷たく硬い声で言う。
「佐藤美咲に電話しろ。一緒に帰るか聞け」
高橋詩織は彼を一瞥して頷き、スマートフォンを取り出して発信した。
すぐに、電源が入っていない旨のアナウンス。
詩織は反射的に阿部蓮を見る。阿部蓮は指先でハンドルを軽く叩いた。
「もういい。行くぞ」
詩織はほっと息を吐き、スマートフォンをしまう。視線は、運転席の横顔へと吸い寄せられた。
軍で長く過ごし、いくつもの任務も経験してきた男は、以前よりさらに冷えた硬さを纏っている。けれど同時に、男としての匂いが濃くなっていて――目を離せない。
道のりは近い。ただ信号が多い。
黒い車はほどなく城北区十二番地へ入り、長い緑の道を走り出す。両脇にはドイツから導入したプラタナスが並び、背の高い木々がつくる並木道には、通る車もほとんどない。
その端を、黄色い自転車が走っていた。
乗っている女の子は片手でハンドルにもたれ、笑顔がやけに眩しい。高いポニーテールが風に揺れる。
高橋詩織は、その小さな背中をじっと見つめた。
リュックは見覚えがある。自分と同じ型で、世界限定二点のもの。佐藤美咲は楽しそうにペダルを踏み、白い頬を上気させて、目元を細めて笑っている。若くて、きれいで、まぶしいほどに生き生きとしていた。
詩織は信じられないものを見るように彼女を見つめ、それから無意識に阿部蓮のほうへ視線を移した。
