第1章 家から追い出される
「荷物持って、さっさと消えな!」
周防芳江は腰に手を当てて玄関先に立ち、足元に積まれた黒い袋をいくつも、階段の下へ蹴り落とした。
ビニール袋がごろごろ転がり、口がほどけた途端、服や本や細々したものが一気に散らばって、地面いっぱいに広がる。
開いたノートの内側には泥水が染み込み、文字はにじんで真っ黒だった。
桐生瞳は痩せた背筋をまっすぐ伸ばしたまま、散らかった荷物を見つめ、指先をきつく握りしめる。
泥に汚れたそのノートは――中学三年のとき、全国作文コンクールで一等を取った祝いに、周防芳江が買ってくれたものだ。
嬉しくて嬉しくて、一週間は浮かれていた。大事に大事にしまい込み、今日まで抱えてきた。
……ほんの少しでも、情はあるはずだと信じていた自分が、滑稽でたまらない。
「耳、腐ってんの?」
黙り込む瞳を見て、周防芳江の声はさらに甲高くなる。
「うちが十五年も食わせてやったんだよ? で、本当の娘が戻ってきたってのに、まだ居座る気? 自分がこの家の人間だとでも思ってた? 他人の家に何年いるんだ、いい加減出てけ!」
吐き捨てるように言い、畳みかけた。
「いい? 今日からお前は桐生! 周防じゃない!」
室内から、軽い足音。
浅野家の“本物の令嬢”――浅野佳音が白いワンピース姿で現れ、周防芳江の隣に立つと、そっと袖を引いた。
「お母さん……そんな言い方しないで。お姉様のせいじゃないし、お姉様だって被害者だよ。今、きっと辛いはず……」
周防芳江は佳音を見るなり目元を甘くゆるめ、娘の手をぽんぽんと叩くように撫でた。
「バカな子。あんたは優しすぎるのよ。こいつがいなきゃ、あんたが外であんなに苦労しなくて済んだのに」
母が慈しみ、娘が健気に寄り添う。その出来すぎた光景に、瞳の胸は細い針でびっしり刺されるみたいに痛んだ。
本当の娘じゃなくても、ここで長く暮らしてきた。育ての親にだって、少しは情があるはずだ――そう思っていた。
けれど、それは全部、彼女の思い上がりだった。
「お姉様、お母さんは口は悪いけど本当は優しいの。気にしないで」
佳音の声は相変わらず柔らかい。けれど、目の奥には隠しきれない得意げな色が漂っていた。
桐生瞳は口元に冷たい笑みを浮かべた。
この数日で嫌というほど分かった。浅野佳音は“いい子”の仮面で同情を買い、裏では一刻も早く追い出したがっている。そういう人間だ。
ただ、ほんの少しだけ未練があった。それで踏ん切りがつかなかった。まさか、こんな辱めを受けるとは。
そこへ、養父の浅野建一がリビングから出てくる。手には銀行カード。
彼はそれを階段に放り投げた。
「中に10万入ってる。補償だ。育ててやった分、これで義理は通した」
カードがコンクリートに当たり、カツン、と乾いた音が鳴った。
瞳はカードを見つめ、幼い頃の記憶が刺すように蘇る。
放課後、建一はいつもこうして玄関で待っていてくれた。瞳は嬉しくて抱きつき、その大きな手を握った。
あの手は、温かくて、頼もしかった。
――今、その手は、カードを床へ投げ捨てた。
かつてのぬくもりは、どこにも残っていない。
鼻の奥がつんと痛み、指先は掌に食い込み、血が出そうだった。瞳は立ち尽くす。
周防芳江が鼻で笑う。
「なに? 少ないって? 言っとくけどね、実の親も調べた。生活保護の貧乏人だよ。家には足の悪い弟までいて、借金まみれ!」
「この10万、受け取らないなら、後で泣きを見るのはお前だよ!」
桐生瞳はようやく顔を上げた。
そこにあった感情は、全部死んでいた。黒く沈んだ冷たさだけ。
その視線の冷えに、周防芳江は理由もなく背筋が寒くなる。
「出ていきます」
瞳は淡々と言った。
「今日から、この家とは一切関係ありません」
そうしてしゃがみ込み、散らばった荷物を拾い始める。
服には靴跡、ページには泥。ひとつずつ整えて袋へ戻していった。
泥のノートを拾ったとき、手が止まる。
挟まっていた写真――三人の家族写真。高校三年の卒業の日、校門前で撮ったものだ。
真ん中で笑う自分の目が、弓なりに細くなっている。
あの日は、愛されていると信じていた。
周防芳江が鼻を鳴らし、背を向けようとした瞬間、浅野佳音が階段を下りてきた。
「お姉様、手伝うよ」
佳音はカードを拾い、瞳の上着のポケットへそっと押し込む。
「お父さんとお母さんの気持ちだから。外は家みたいに甘くないし、何かとお金いるよ」
その手が、ポケットの中で一瞬止まった。
引き抜かれた指先には、小さなヘアピンが挟まっている。
銀杏の葉の形。小粒のダイヤが午後の日差しにきらりと光った。
「え……?」
佳音は目を見開き、口元を押さえる。
「これ……お父さんとお母さんが、私にくれた……」
周防芳江も一目でわかった。自分が佳音の誕生日に贈ったものだ。シャネルの特注で、当時は数百万円した。
「桐生瞳! 恥を知りな! 出ていく間際に盗みまで!」
声が跳ね上がり、目には露骨な嫌悪。
浅野建一の顔も曇り、瞳を見る目に失望が混ざる。
佳音は唇を噛み、目尻を赤く染めた。
「お姉様……そんなに欲しかったなら言ってよ。あげるから。本当に……こんなことしなくても……」
近所の視線が集まり、ひそひそと囁きが広がっていく。
「盗み? 普段は大人しい子に見えたのにねぇ」
「だから言うでしょ、血が違うと、やっぱり……」
「佳音ちゃんはいい子なのにね」
桐生瞳は、そのわざとらしい泣き顔を見ながら、ふっと笑った。
自分は触れてもいない。可能性はひとつ――さっきポケットに入れたのは、佳音だ。嵌めたのだ。
瞳は冷ややかに佳音を見た。
「役者にでもなれば? その芝居、もったいないよ」
言い捨て、ヘアピンを地面へ放り投げる。
さらに、その上へ足を乗せ、ぐり、と踏んだ。
「こんなの、盗る価値もない。いらない」
周防芳江は顔を青くして怒鳴る。
「価値がない!? うちの金で食って住んで! 羽が生えたつもりか! 何様だ!」
桐生瞳の声はさらに冷たかった。
「うちの金? 忘れたの? 浅野家の金をここまで稼いだのは誰」
「子どもの頃に育てた分は、もう返した。全部」
浅野家はもともと小さな会社だった。瞳が運営に入り、ようやく形になってきた。もう少しで上場だって見えていたのに。
「――っ!」
周防芳江は逆上して手を振り上げた。
「でたらめ言うな!」
瞳は身をひねって避けたが、散らばった本に足を取られ、体勢を崩して転げ落ちた。
掌に激痛。右手が砂利で裂け、血がぽたぽたとコンクリートに落ち、小さな赤い染みを広げていく。
周防芳江は見下ろし、せせら笑う。
「ざまあみろ。罰が当たったんだよ!」
浅野建一も冷えた目で立ち尽くす。まるで他人を見るように。
瞳は思った。掌の痛みなんて、どうでもいい。
俯いたまま、口元をわずかに歪める。
――まだ少しでも、真心があったと期待していた自分が、惨めでたまらない。
「お姉様、大丈夫? お母さんを恨まないで。怒りすぎただけだから」
佳音は上っ面だけの心配顔で近づき、助け起こすふりをしながら、耳元に悪意と誇示を混ぜた声を落とした。
「そうだ。10月2日、私と司の婚約パーティーなんだ。お姉様、暇なら……絶対来てね」
胸がまた刺された。
司――藤代司。
幼なじみで、かつての婚約者。
今は、浅野佳音と婚約する。
桐生瞳はゆっくり顔を上げ、瞳の温度をひとつずつ落としていった。
