第4章 彼女に礼儀作法を教える
陸奥守正はまっすぐ桐生瞳の前まで歩み寄り、感謝に満ちた顔で頭を下げた。
「桐生さん、本当に助かりました。連絡を受けてすぐ駆けつけたんですが……間に合わず、申し訳ありません」
桐生瞳は軽く手を振る。
「いえ。助けたのは祖母です。私が動くのは当然です」
そこへ片桐麗華が慌てて口を挟んだ。
「院長! 聞いてください、この子、あまりにも傍若無人なんです! 許可も取らずに患者さんを切開して……人命軽視にもほどがあります! 私たちは――」
言い終える前に、陸奥守正が冷たい視線を投げる。
「誰が人命軽視だと? 君は桐生さんがどういう方か、わかって言っているのか!」
片桐麗華は眉をねじ曲げる。
「……ただの患者のご家族でしょう?」
陸奥守正は怒りを含んだ笑みを漏らした。
「はは。救いようがないな。桐生さんはここ数年、何度も患者を土壇場から救ってきた。腕はこの場の誰よりも上だ」
声が鋭くなる。
「それに君は、三か月も担当しておきながら、患者がフロセミドにアレルギーがあることすら把握していなかった。いったいどっちが人命を踏みにじっているんだ!!」
「わ、私は……!」
片桐麗華の顔が強張る。弁解しようとした、その瞬間。
「宣言する。君は今この時点で停職だ。戻って徹底的に反省しろ。改善が見られないなら……二度と医療に関わるな」
片桐麗華の頭が、ぐわん、と鳴った。
晴天の霹靂。脚に鉛を流し込まれたみたいに、動けない。
陸奥守正は傍の助手へ顎をしゃくる。
「何を突っ立っている。外へ連れ出せ」
片桐麗華はそのまま両脇を抱えられ、ずるずると連れていかれた。
やがて陸奥守正は表情を改め、桐生瞳へにこやかに向き直る。
「桐生さん。今の心嚢穿刺……完璧でした。差し支えなければ、どなたに師事されているのか、お名前だけでも」
その問いは、彼が何度も繰り返してきたものだった。
断られても、諦める気配がない。
桐生零も思わず耳を澄ませる。
桐生瞳はいつも通り首を横に振った。
「すみません。師から、勝手に名を明かすなと厳命されていて。ただ……医術に関しては、世界でも指折りです。それだけは院長も疑わないでください」
きっぱりした態度に、陸奥守正もそれ以上は踏み込めない。
「ええ、もちろん。患者さんは峠を越えました。私はこれで。何かあればすぐ連絡を」
「はい。ありがとうございます」
陸奥守正が去ったあと、桐生瞳はベッド脇に座り、松下淑子の痩せた手を握った。目の奥がじわりと熱くなる。
浅野家の人間にとっては、ここケアセンターへ預ければそれで『親孝行』なのだろう。
けれど、脳卒中の人に必要なのは、手のかかる介助と、なにより寄り添う時間だ。
だからこそ、彼女は毎月ここへ来ていた。
しばらくして、松下淑子がゆっくりと目を開ける。桐生瞳の顔を認めるなり、口元がふわりと緩んだ。
「瞳……来てくれたのね」
「おばあちゃん、具合はどう? どこか苦しくない?」
松下淑子は小さく首を振る。
「大丈夫よ。こんな年寄りのせいで、毎月ここまで来させちゃって……」
「そんなこと言わないで。私を育ててくれたのはおばあちゃんだもの。今度は私が、おばあちゃんを守る番だよ」
松下淑子がふと桐生零へ視線を流した瞬間、目に警戒が走った。
金髪の男がいきなりケアセンターに立っていれば、無理もない。
「……こちらは?」
桐生瞳が説明しようとした、その前に桐生零が一歩出る。
「初めまして。俺は瞳の叔父です。今日は迎えに来ました。家に連れて帰ります」
「家? どこの家に……?」
桐生瞳は、自分が追い出された経緯をありのまま話した。
松下淑子はみるみる顔を赤くし、ベッドをばしんと叩く。
「なんてひどい……! あの二人、人の心がないの!?」
「長いこと一緒に暮らしてきたんでしょう。血が繋がってなくたって家族じゃない!」
「待ってなさい、私が戻って――」
そう言って起き上がろうとするが、半身麻痺の身体は言うことをきかない。
桐生瞳が慌てて抑える。
「おばあちゃん! 動いちゃだめ!」
松下淑子は涙を拭い、声を震わせた。
「ごめんね……おばあちゃんが情けない。守ってやれないなんて。恨むなら私を恨んで……」
桐生瞳の涙も、ぽろぽろとこぼれた。
「おばあちゃん、違うよ。浅野家で私が温かいと思えたのは、おばあちゃんだけだった。私にとって、本当の家族はおばあちゃんだよ」
「浅野家にいなくなっても、私、これからも会いに来るから」
背後の桐生零が少し考え、松下淑子に向けて言った。
「もしよければ、一緒に来ませんか。うちにもケアの設備はあるし、ここより環境もいい。近くにいたほうが、俺たちも面倒を見やすい」
桐生瞳ははっと振り返り、涙を溜めたまま見上げる。
「叔父さん……それ、本当にいいの?」
桐生零は胸を張る。
「何が問題だ。そんな遠慮いらねぇ。桐生家は、そこまで器が小さくない」
桐生瞳は思わず、泣き笑いになる。
こんなにあっさり手を差し伸べてくれるなんて。
「でも……叔父さんも帰ってきたばかりだし、迷惑は――」
松下淑子がまだためらうのを、桐生零は遮るように立ち上がり、部屋を出た。
「手続きしてくる。三分で戻る!」
桐生瞳は祖母の手を握り直す。
「おばあちゃん、一緒に帰ろう。叔父さん、悪い人じゃない。私たちを困らせたりしないよ」
そのとき、扉が勢いよく開いた。
浅野佳音と、背の高い男が入ってくる。
男を見た瞬間、桐生瞳の表情が氷みたいに冷えた。
藤代司――その顔だった。
浅野佳音は藤代司の腕に縋りつき、困ったふりの笑みを浮かべる。
「お姉様もお見舞いに来てたんだ。えらいね。でもね、ひとつだけ言っておかなきゃ」
「もうお姉様は浅野家の人間じゃないんだから、おばあちゃんに会いに来るのはやめて。誤解されると困るし」
桐生瞳が言い返す前に、松下淑子が怒鳴った。
「どういう意味! この子は私の孫よ。浅野家がどうとか関係ないでしょう! 口を出すんじゃない!」
浅野佳音は涼しい顔で笑う。
「外婆、それは違うよ。昔は孫だったけど、今は違うでしょ? 会いに来続けたら、色々よくないと思うの」
「それに、お姉様が浅野家の名前を使って外で何かしたら、浅野家の評判にも響くし」
「パパとママだってお金をかけてここに預けてるのに、感謝もしないで騒がれたら迷惑だよ。ね?」
桐生瞳の堪忍袋が切れた。
一歩で間合いを詰め――頬を打ち抜く。
「ぱんっ!!」
乾いた音が響き、浅野佳音の頬に赤い指の跡がくっきり浮かぶ。
「……っ! な、何するの!? 私を叩いたの!?」
浅野佳音の声が震え、信じられないという顔になる。
桐生瞳は冷えきった声で言い放つ。
「叩いたんじゃない。叩くべき相手だから叩いたの」
「今日、教えてあげる。『礼儀』ってものをね」
藤代司がさっと浅野佳音を背中に庇う。
「桐生瞳……礼儀がないのはお前だ。今すぐ佳音に謝れ。さもないと――」
「さもないと、何?」
桐生瞳が遮り、挑発するように顎を上げた。
「仇でも取る? やってみなよ」
浅野佳音が傍で泣き声を作る。
「司さん……ほっぺ痛い。跡、残ったらどうしよう……」
藤代司の目が冷たく細まる。
「……いつからそんな人間になった。もう一度言う。謝れ」
「嫌」
藤代司の額に青筋が立ち、腕を振り上げた、その瞬間。
松下淑子が怒号を放った。
「やめなさい!! 瞳に指一本でも触れたら、私が許さない!」
全身の力を振り絞り、松下淑子は上体を起こす。
桐生瞳は目を見開き、慌てて支える。
「おばあちゃん! 無理しないで、身体が――!」
けれど松下淑子は聞かず、藤代司と浅野佳音を指さし、激しく咳き込んだ。
「げほっ……げほっ! 今……今日、私が生きてる限り、誰にも瞳を傷つけさせない……!」
次の瞬間。
松下淑子の顔色がさっと変わり、口元から鮮血が噴き出した。
「ぶっ……!」
「おばあちゃん!!!」
