第7章 功なくして禄を受けず
周防芳江たちが去ったあと、専属秘書が険しい顔のまま桐生零へと歩み寄ってきた。
桐生零の胸がきゅっと締まる。咄嗟に一歩出て、桐生瞳を背中にかばうように立ちはだかった。空気が一瞬で張りつめる。
「何のつもりだ」
専属秘書は桐生零を視界から外すように、まっすぐ桐生瞳だけを見据えた。声は冷え切っている。
「桐生さんにご用があります。あなたには関係ありません。お退きください」
「退かないと言ったら?」
桐生零は鼻で笑い、むしろ半歩前へ出た。守りを固めるように、さらに瞳の前を塞ぐ。
「こいつに手ぇ出すなら、まず俺を倒してからだ!」
その意地を見て、専属秘書の眉間がわずかに歪む。
「そちらの方。誤解なさらないでください。悪意はありません。ですから、退いていただけますか」
言い終えるのと同時に、背後の護衛が一斉に半歩詰めた。揃いすぎた動きが、かえって圧を増す。
「小父さん、退いて」
一触即発の中、桐生瞳が桐生零の袖をそっと引いた。凪いだ声だった。
「瞳、相手は多いだろ……」
「大丈夫。私が話す」
遮られて、桐生零は口を噤む。迷いはしたが、結局ゆっくり横へ退いた。とはいえ肩は強張ったまま、いつでも飛びかかれるように構えている。
桐生瞳は改めて専属秘書へ視線を向けた。
「あなたとは会ったことがないはず。私に何の用?」
次の瞬間、専属秘書の冷淡さと尊大さが嘘みたいに消えた。彼は深く頭を下げる。
その光景に、桐生零も桐生瞳も同時に目を見張った。
専属秘書は頭を下げたまま、丁寧に言う。
「桐生さん、先ほどは無礼を働きました。どうかお許しください。私どもは、あなたが先ほど患者を救命なさった一部始終を拝見しております。腕の確かさは疑いようがありません」
一拍置き、さらに言葉を重ねた。
「実は、弊社社長の祖母が重篤で、あらゆる治療を尽くしても回復の兆しがございません。どうか桐生さんに執刀をお願いしたく、参りました。医の心にすがる形で恐縮ですが、ご承諾いただけないでしょうか」
「悪いけど、断る」
桐生瞳は即答だった。
相手が何者かも分からない。だがこの護衛の数だけで、厄介な家の人間だと察せる。面倒事は、少ないほうがいい。
それに彼女は、頼まれたからといって誰彼構わず手を出す医者でもない。自分が納得して、初めて動く。
専属秘書は一瞬、言葉を失った。ここまできっぱり拒まれるとは思っていなかったのだろう。
だが食い下がりはしない。彼は懐から黒いカードを一枚取り出し、両手で差し出した。
「桐生さん。危険が伴うことは承知しています。これは、我が方が先にお預けする手付金です。どうか、もう一度ご一考ください。人を救うことは、巡り巡ってあなたの徳にもなります」
桐生瞳は一瞥しただけで受け取らない。
「要らない。何もしてないお金は受け取れないし、厄介ごとに首を突っ込みたくない」
脇で見ていた桐生零は、カードの金色の意匠に眉を寄せた。どこかで見た覚えがある。だが、どこだったか――。
覗き込もうとしたそのとき、桐生瞳が背を向け、低く告げた。
「行くよ」
「……ああ」
桐生零はすぐ視線を引っ込め、瞳のあとを追う。
専属秘書と護衛たちはその場に立ち尽くし、二人が離れていくのをただ見送るしかなかった。止めに来る気配は、ない。
バイクはケアセンターを離れ、霊園の方角へ向けて走った。
進むほどに空気は澄み、周囲はひっそりと静まっていく。道の両脇には古木がそびえ、枝葉が絡み合って陽射しを塞ぐ。落ちる光は、木漏れ日の斑模様。
やがて、遠くに見えた。
黒いアイアンゲート。精巧な装飾がびっしりと刻まれ、その奥には幅広い石畳がまっすぐ奥へ伸びている。
さらに奥――本館はヨーロッパ調。優雅な輪郭と圧倒的な存在感。
屋敷というより、城だ。
桐生瞳は門前で立ち尽くし、しばし言葉を失った。
ここが……私の、本当の家?
隣の桐生零が、ふっと笑う。
「瞳、着いたぞ。なに呆けてんだ」
その言葉が終わるより先に、本館の扉が押し開かれた。
華やかな装いの中年男女が、足早に外へ出てくる。男は濃色のスーツに身を包み、柔らかな品のある佇まいだ。眉や目元が、桐生瞳とどこか似ている。女はベージュのロングドレス。穏やかな顔立ちだが、目は赤く腫れていた。
桐生瞳を見た瞬間、女の頬を涙が伝う。
――この人たちが、実の両親。
「瞳……! 私の子……!」
沢渡令子が駆け寄り、桐生瞳を強く抱き締めた。肩が震え、嗚咽で言葉が途切れる。
「ごめんね……! 十何年も外で苦労させて……ずっと、ずっと会いたかった……!」
桐生明人も近づき、赤くなった目で母娘の背をそっと叩いた。声が詰まる。
「戻ってきてくれた。それだけでいい……これからは家族だ。もう二度と離さない」
抱き締められた胸の温かさに、桐生瞳の心の奥がじわりと痛む。
これが……母親の愛?
損得も、企みもない。ただ、恋しさと、悔いと、慈しみだけ。
浅野家でも幼い頃は幸せだった。けれど成長するほど、優しさには必ず条件が付いた。
それに比べて、目の前の二人は違う。久しく忘れていた「本物の気持ち」が、そこにある。
「……父さん、母さん」
桐生瞳が小さく呼ぶと、沢渡令子は泣き笑いで頷いた。
「ええ、いい子……」
令子は抱擁をほどき、両手で瞳の頬を包む。痩せた輪郭を見た途端、表情が痛々しく歪んだ。
「こんなに細くなって……向こうでちゃんと食べさせてもらえなかったの? これからはお母さんが毎日おいしいもの作るわ。ふっくらするまで、いっぱい食べさせる」
桐生明人も横で、矢継ぎ早に声をかける。
「困ったことはなかったか。嫌な思いはしていないか。……本当に、よく頑張ったな」
桐生瞳は一つひとつ、落ち着いた声で答えた。
そのとき、ふと視線の先――回廊に、車椅子の少年がいるのに気づく。
年の頃は16、17。整った顔立ちだが血の気は薄い。膝には毛布が掛けられている。噂に聞いていた、足の悪い弟――桐生辰哉。
目が合うと同時に、辰哉はぷいと顔を逸らし、別の方向を見た。耳の先がわずかに赤い。照れ隠しだろう。
「瞳、あれが弟の辰哉よ」
沢渡令子が慌てて紹介し、申し訳なさそうに続ける。
「小さい頃に事故があってね……脚が悪いの。もともと内気で、人見知りも強くて。挨拶できなくても、気にしないで」
桐生瞳は首を振った。
「気にしない。大丈夫」
ほどなく家族に囲まれ、本館の中へ案内される。
メインリビングは豪奢でありながら嫌味がない。磨き込まれた質感と、控えめな美意識が隅々まで行き届いている。使用人が手際よく料理を運び、テーブルはあっという間に皿で埋まった。どれも桐生明人と沢渡令子が、瞳の好みを聞き出して揃えたものらしい。
食事の最中、沢渡令子はせっせと取り分ける。
「瞳、もっと食べて。これは酢豚、こっちは蒸し魚。身体にいいのよ」
桐生明人も頷く。
「食べたいものがあれば何でも言いなさい。うちは全部揃う」
桐生瞳は断らず、静かに箸を進めた。久しぶりの家庭の温度が、胸の奥にじんわり染みていく。
食後はソファに移り、話の続きをする。沢渡令子は瞳の手を離さず、これまでの暮らしを聞いては目を潤ませた。
そのとき――。
玄関の扉が勢いよく開く。
黄色いワンピースに身を包み、完璧に整えたメイクの少女が大股で入ってきた。声は高く、よく通る。
「ただいまー!」
桐生瞳が振り向く。
年齢は同じくらい。ブランド品で固め、髪は丁寧に巻かれたカール。眉と目元に、わがままな甘さが滲んでいる。
そして、家族全員が桐生瞳を囲んでいるのを見るなり、少女の顔色が変わった。
「誰よ、あんた。なんでうちにいるの? 今すぐ出てって。うちから消えて!」
