第1章
「奥さま、鑑定結果が出ました。藤原さまと、ご夫妻の養子でいらっしゃるお子さまのあいだには、確かに生物学上の親子関係が認められます」
検査フロアの外で、職員が一語一語、言い聞かせるように告げた。
雪見詩音は、何度も読み返して皺だらけになった報告書を握り潰しそうな勢いで掴んでいた。指先が勝手に震える。
真夏だというのに、手も足も氷みたいに冷え切って、体の芯まで寒い。
今回の親子鑑定は、そもそも事故みたいなものだった。
数日前――息子の藤原蓮の誕生日パーティーで、来客たちが口々に言ったのだ。蓮は藤原和也と「同じ型で作ったみたい」だと。
詩音は気に留めなかった。ところがその後、親友が慌てた様子でやって来た。鑑定機関に勤める知人が家族写真を見て、「この父子は絶対に実子だ」と言ったらしい。
詩音には、まったく理解できなかった。
和也は以前、体を痛めて不妊症と診断されている。だからこそ五年前、まだ生後一か月の子を養子に迎えた。血縁があるはずがない。
それでも――虫の知らせに背中を押されるように、詩音は二人の歯ブラシを検体として提出した。
そして結果は、頭を殴られたみたいな衝撃だった。
親友が強く勧めなければ、詩音は今も騙されたままだっただろう。
自分の手で育て、我が子同然に愛した息子が、和也と別の女のあいだに生まれた子だったなんて。
詩音は目を閉じる。頭の中がぐちゃぐちゃに掻き回される。
今すぐ会社へ戻り、和也を問い詰めなければならない。なぜ騙したのか。なぜ五年も、こんな仕組みを続けたのか。
詩音は車を飛ばし、本社へ向かった。
蓮グループ本社ビルに足を踏み入れると、すれ違う社員が次々に会釈をする。
「奥さま」
「雪見部長」
詩音はもともと投資部を統括している。受付は視察だと思ったのだろう。険しい顔で書類を手に専用エレベーターへ乗り込む詩音を見て、連絡もせずに通した。
足早に社長室へ向かい、扉を押そうとしたその瞬間――内側から、聞き慣れた男の声がした。
「和也。最近、あなたと蓮が似てるって噂が増えてるわ。詩音が疑いだしたらどうするつもり?」
扉にかけた手が、空中で固まる。
和也の母、藤原百合子の声だ。
続いて、低く冷たい笑い。
「母さん。五年だ。ずっと『蓮は俺に似てる』って言われてきたけど、詩音は一度も疑わなかった」
詩音はその場で動けない。扉の隙間から、ソファスペースで向かい合う母子の姿がぼんやり見えた。
百合子は湯呑みを持ち、不安げに眉を寄せる。
「あの子が鈍いとはいえ……今度、琴音を秘書として雇うんでしょう。詩音は社内でも権限が強い。気づかれない自信、あるの?」
「琴音が入社するのは秘書としてだ。すぐにどうこうするつもりもない。だが、あいつは昔、出世のために子どもを捨てて海外へ逃げた。俺は仕方なく、急ごしらえで女を捕まえて“母親役”をさせたんだ」
和也の声に、剥き出しの苛立ちが混じった。
けれど詩音は、その憎しみの底に、いくばくかの愛情が混ざるのを聞き取ってしまった。
小林琴音。
詩音の顔から血の気が引く。すべてが一瞬で繋がった。
自分はただの道具だった。和也が愛しているのは、最初から別の女。
百合子がため息をつく。
「琴音が気持ちを戻してくれたら、詩音はどうするの?」
和也はしばらく沈黙し、指先でカップの縁をなぞった。
「詩音には退任してもらう。一か月後に退職手続きを終えて、それから離婚届にサインだ。夫婦として数年はやってきた、五千万は補償として渡す」
五千万。
詩音の心が、底へ落ちていく。胸が詰まって呼吸ができない。
立っていられず、胸を押さえてトイレへ駆け込んだ。
水を顔に浴びて、ようやく少しだけ現実感が戻る。
自分は世界で一番幸せだと思っていた。
名門大を卒業し、二年間片想いしていた男に突然プロポーズされ、盛大な結婚式。
雪見家と藤原家は釣り合いが取れ、親も頷く完璧な政略結婚。
結婚後に和也の不妊が発覚したとき、子どもを持てないことは残念だったが、それでも受け入れた。和也を支え、孤児院から養子を迎える提案にも賛成した。
ちょうどそのとき、院長が言った。門の前に男の赤ん坊が捨てられていた、と。
物心のついた子より、幼い頃から育てたほうが絆が深い。そう考えて手続きをした。
名前は和也が付けた。
蓮。
結婚後、和也は将来藤原グループを円滑に継ぐため、文化メディア会社を立ち上げ、事業の軸をこちらへ移した。
詩音は雪見グループの仕事を手放し、へそくりまで注ぎ込み、人脈も資源も使って和也を押し上げた。
プロジェクトが爆発し資金が切れるたび、穴を埋めたのは投資部長の詩音だった。
今や時価総額を倍にした案件の半分は、詩音が取ってきた。
職場で戦い、家では切り盛りし、最高の相棒、妻、母になろうと必死だった。
なのに――和也の初恋が戻ってきた途端、自分は邪魔者。
雪見家の令嬢が、五千万の手切れ金で黙ると思っているのか。
蓮グループがここまで来たのは、半分は詩音の力だ。出資も労力も注ぎ込んだこの血と汗は、和也が初恋の心を取り戻すための道具だった?
呼吸ができないほど痛くて、詩音はしゃがみ込み、震えが止まらなかった。
――自分が滑稽すぎる。
長い時間のあと、足が痺れたまま立ち上がり、息子のことを思い出す。
大人は汚い。でも子どもに罪はない。
たとえ蓮が琴音の子でも、五年、同じ家で過ごした。詩音にとっては我が子だ。
捨てた女が突然現れて、母親の座を奪うなんて――蓮が受け入れるはずがない。
そう自分に言い聞かせ、詩音は帰宅した。
玄関を開けると、家政婦が蓮の周りで小さなスーツを合わせていた。どちらも詩音が自ら高級オーダー店で仕立てたものだ。
蓮は鏡の前で蝶ネクタイをいじりながら、悩ましげに唸る。
「うーん……どっちが俺、もっとカッコいいかな?」
詩音の死んだ目に、わずかな温度が戻る。
何も知らないふりをして近寄り、濃紺を勧めようとした、そのとき。
蓮が白いほうを掴み上げた。
「こっち! パパが言ってた。彼女は白い白鳥が一番好きなんだって」
詩音の足が止まる。
家政婦は事情を知らず、愛想よく言った。
「坊ちゃまが何を着ても、奥さまはきっとお好きですよ」
蓮は口を尖らせ、声をひそめる。
「俺が言ってるのは家のこの人じゃないよ! パパと一緒に、あの人が昔みたいに後悔して戻ってきたくなるように、俺、カッコよくしなきゃ。俺の“違うママ”になってもらうんだ!」
目の奥の小さな光が、完全に消える。
空中で固まっていた手が、力なく下へ落ちた。
つまり――五歳の子どもですら、実母が戻ってくることを知っている。
父子で心を合わせ、琴音を喜ばせるために“家族団らん”を望んでいる。
では、自分は何だ。
蓮にとって、五年の愛情は一秒で入れ替えられる程度だったのか。
和也にとって、自分の献身は離婚届と五千万の価値しかないのか。
冗談じゃない。
使い捨てのゴミになどならない。
離婚する前に、取り返すべきものを全部取り返してから、きれいに消えてやる。
雪見家では掌の上の宝石だったのに、目が曇って五年もここで家政婦と踏み台をやっていたなんて。
詩音は唇を吊り上げ、冷たく笑った。そして部屋に戻ると、雪見家の顧問弁護士へ直通で電話をかける。
「離婚協議書を作って。今すぐ」
