第3章

少し落ち着きかけていた詩音の心が、また鋭く痛んだ。

結婚して五年。和也の連絡先で、詩音はいつだって無機質な――雪見部長。

公私を分ける必要がある、社員に誤解されたくない、と和也は言った。

詩音はそれを信じ、彼の芝居に付き合ってきた。

でも今になって分かる。本当に大事な相手には、こんなふうに登録名まで甘いのだと。

原則なんて、愛していない言い訳だっただけだ。

「……ああ、分かった」

「怖がるな、すぐ行く!」

和也の顔色が変わり、電話を切るや否や立ち上がった。焦りが目に見える。

「会社でトラブルだ。詩音、蓮を寝かしつけてくれ。俺は出る」

詩音は暴かない。ただ冷たく見送り、彼が消えるのを見た。

残業を口実に元カノに会う。そんな安っぽい筋書きが、自分の人生で現実になるとは。

詩音は二階へ上がり、食事中の蓮も無視して、そのままドレスルームへ入った。

棚の中は和也からの贈り物で埋まっている。

上場直後に資金が足りず、詩音が頭を下げて投資を集めた。その成功祝いのサファイアのブローチ。

蓮が肺炎で入院し、詩音が一週間つきっきりで看病したときに和也が渡したダイヤのブレスレット。

毎年の記念日に『最愛の妻へ』と書かれたカード。

かつては宝物。今は全部、こう囁く。

――詩音、滑稽だ。

震える手で、カードも宝石もまとめてゴミ箱へ投げ捨てた。

物音を聞きつけ、家政婦が慌てて扉を開ける。

「奥さま! それ、全部ご主人からの……捨てるなんて!」

詩音は苛立ちを隠さず言う。

「目障り。持って行って捨てて。二度と見せないで」

家政婦は口をつぐみ、そそくさと運び出した。

半分空になったジュエリーボックスを見て、ようやく少しだけ心が楽になる。

十分後、詩音は兄に電話した。

「悠」

相手の雪見悠は嬉しそうな声だった。

「詩音。こんな時間にどうした、まだ起きてたのか?」

詩音は感情を整え、弱さが滲まないように言う。

「蓮に投じた資金、持分の置換をしたいの。撤退するか、あるいは株式を半分持ってくる場合、最短でどう動ける?」

聡い悠は、即座に違和感を嗅いだ。

声色が変わる。

「何があった? 和也に何かされたのか? それとも会社のことか」

真実を知られたら、雪見家の気質的に藤原家は明日にも叩き潰される。

詩音は大ごとにしたくない。ただ静かに金を引き上げて消えたい。

目が赤くなるのを堪え、嗚咽を押し殺す。

「違う。お金を自分の手に戻したいだけ。お兄ちゃん、深読みしないで」

こういうとき、いちばん怖いのは“優しさ”だ。

一人なら耐えられるのに、誰かが慰めた瞬間、心の堤防は崩れる。

「……分かった。明日、法務から連絡させる」

悠は疑いながらも、引き受けた。

電話を切り、詩音はシャワーを浴びた。

兄が深追いしなくて助かった――そう思いながら。

浴室を出ると、蓮がいつものように詩音の大きなベッドを占領し、抱き枕のように毛布を抱えて眠っていた。

詩音は迷わず近づき、子どもごと毛布を抱えて子ども部屋へ運び、寝かせた。

実の母親を想っているのなら、臨時の乳母が媚びる必要はない。

部屋へ戻り、鍵をかけ、電気を消す。

午前二時。電話が鳴り響いた。

「雪見部長! 大変です! 藤原社長が人を殴ってトレンド入りしてます、動画が全ネットで拡散中です!」

部下からだった。

詩音は跳ね起きる。

何が起きた?

和也のイメージは常に気品があり、あの顔立ちも相まって注目度は高い。

このタイミングで醜聞が出たら、明日の株価はストップ安になりかねない。

詩音は眉をひそめた。

利益を何より重んじる和也が、人前で自制を失う?

考えている暇はない。ベッドから降りる。

「広報部、全員叩き起こして。私がすぐ行く」

着替えながらトレンドを確認する。

盗撮の動画。画面の和也は男の襟首を掴み、殺す勢いで拳を叩き込んでいた。

周囲は荒れ、悲鳴が上がり、惨状。

コメント欄ではすでに特定されていた。殴られた男はエデンの投資家の一人で、その界隈の顔役だと。

エデン――A市の金食い窟。

野次馬は、藤原社長と裏社会の取引が拗れたのでは、と好き勝手に言っている。

詩音は細部を追うのをやめ、車を飛ばした。

道中ずっと広報部と電話を繋ぎ、真相が何であれ、まず熱量を落とすことだけを指示する。

会所に着くと、現場は封鎖されていた。

ボディガードが詩音を見ると、恭しく「奥さま」と呼ぶ。だが目が泳いだ。

嫌な予感が胸を刺す。詩音は個室の扉を押し開け――そして、視界が焼けた。

個室は静まり返っていた。

和也はソファに崩れ落ち、こめかみから血を滲ませ、見る影もなく狼狽している。

その胸の中に、女が守られるように抱かれていた。長い髪が滝のように落ち、怯えた小鹿みたいな顔で、紙で彼の傷を押さえている。

「和也、血が……病院へ行こう?」

和也はその手を握り返す。

「怖がるな。俺がいる。誰にも触らせない」

詩音は入口に立ち尽くし、体中の血が逆流するのを感じた。

女が振り向く。清楚で目を奪う顔――琴音。

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