第5章
「殴り合いって、どういうことなの!」
詩音は食い下がった。
できることなら、一度も愛したことなどないと、夫の口から直接聞きたかった。
幸福という名の沼に、あまりにも深く沈みすぎた。
だからこそ、こういう形で目を覚まし、後で未練なく身を引けるようにしたかったのだ。
「同級生だ。助けを求められて、見捨てられるわけがないだろう」
和也は苛立たしげに弁解し、話題を逸らした。
「彼女はひどく怯えてる。君が行って支えてやってくれ」
有無を言わせぬ口調。
それが、詩音の最後の期待を木端微塵に打ち砕いた。
琴音が記者に囲まれているだけで、これほど取り乱すというのか。
琴音に比べれば、和也の心の中で詩音の存在など、羽毛のように軽い。
詩音は思わず拳を握り締めた。
爪が掌に食い込む鋭い痛みが、かろうじて彼女の意識を保たせた。
彼女はその場から一歩も動かなかった。
「あの女一人のせいで、会社の株価は崖から落ちるように暴落してる。今も外には記者が群がってるのよ。一瞬で時価総額がどれだけ吹き飛んだか分かってるの? それに、彼女のせいで私もあなたも、一晩まともに眠れてないじゃない!」
「その件については、後で取締役会に説明する!」
詩音は一瞬呆然とし、思わず吹き出した。
和也が琴音一人のために、ここまで理性を失うとは思わなかった。
感情を露わにしすぎたと気づいたのか、和也の口調が少し和らいだ。
彼は座り直し、声を落とす。
「この件が片付いたら、君と蓮を連れて……家族三人でオーロラを見に行こう」
昔の詩音なら、この言葉を聞いてすぐに頷いていただろう。
だが、あの親子鑑定の結果やこれまでの出来事が、無数の透明な平手打ちとなって彼女の頬を張った。
しかし、今ここで身を引くのは、あまりにも都合が良すぎる。
少し考えた後、彼女は握り締めていた手を離した。掌の痛みが僅かに引いていく。
詩音は息を吐き出した。
「全部終わったら、私のお願いを一つ聞いて」
「何でも言ってくれ。全部叶えよう」
約束を取り付けると、詩音はもう無駄口を叩かなかった。
電話を一本入れ、最短で現場へと向かった。
藤原家の御曹司が美女のために殴り合いを起こしたというニュースはあまりに衝撃的で、午前三、四時になっても、車を囲む記者は三重四重の人垣を作っていた。
そこへ突然入ってきた車に、外側の記者たちが次々と振り返る。
藤原夫人が来たと気づき、群衆が瞬時に割れ、我先にと詩音へ向かって突進してくる。
訓練されたボディガードたちが迅速に詩音を中心に円陣を組み、記者たちを押し返した。
記者たちが矢継ぎ早に質問を浴びせる。
「藤原奥さま、藤原社長が女性のために殴り合いをしたという噂は本当ですか?」
「その女性と藤原社長の関係は?」
「現在、その方は前の車に乗っていますが、この件にどう対応されるおつもりですか?」
……
質問が次から次へと詩音に投げつけられる。記者たちは同時に、詩音の表情が僅かにでも揺らぐ瞬間を狙っていた。
ほんの少しでも崩れれば、それを格好のネタにして記事を書き立てるつもりなのだ。
だが残念ながら、彼らの期待は外れた。
詩音は微笑んだ。その顔には余計な感情など微塵もない。
「助けを求められれば、誰だって手を差し伸べるでしょう。皆さんも同じだと思いますが」
その場にいた記者たちの目論見が外れる。
さらに追及しようとする彼らに、詩音は隙を与えない。
「もう遅いですし、皆さんもお帰りになって休んでください。続報は広報から正式に出します」
そう言い終えても動こうとしない記者たちを見て、詩音の瞳の奥に冷たい光が宿った。
彼女は再び口を開き、視線を巡らせて、言葉に微かな脅しを混ぜた。
「皆さんも雇われの身でしょう。こんな小さなことで職を失う必要、あります?」
その一言が、その場にいる者たちを瞬時に怯ませた。
上流階級のゴシップを常に追っている彼らは、詩音の背後にある勢力を嫌というほど理解している。
藤原家の若奥さまであるだけでなく、雪見家の令嬢でもあるのだ。
その二重の立場と絶大な権力は、彼らのような記者が喧嘩を売れる相手ではなかった。
数人の記者が顔を見合わせ、愛想笑いを浮かべて引いていく。
ほどなくして現場は静まり返り、記者は一人残らず姿を消した。
詩音は冷ややかな顔で息を吐き、振り返って黒い車の前へ歩み寄ると、指を曲げて窓を二度叩いた。
窓が下り、琴音の顔が姿を現す。
詩音が開口するより早く、琴音は潤んだ目をきょろきょろと動かした。
そして、安堵したように息を吐いて胸を撫で下ろす。
「やっと帰ってくれたんですね」
彼女は詩音に向かってにっこりと笑いかけた。
「今夜のことは……雪見さん、ありがとうございました」
「私に?」
詩音は嘲るように頷いた。
「ええ、感謝すべきね。あなたのせいで部署が丸ごと深夜まで残業して、会社の時価総額は何十億も吹き飛んだんだから」
琴音は頬を赤らめ、両手で窓枠を掴んで下唇を噛んだ。
「今夜のことは、私が悪かったです。でも、わざとじゃありません。雪見さんも、私に八つ当たりしなくても……」
詩音はこめかみを引き攣らせ、自分の耳を疑った。
「……どういう意味?」
琴音は運転席のボディガードをちらりと睨み、肩をすくめて目を伏せ、小声で言った。
「今夜、和也がずっと私を庇っていたから、雪見さんが不満に思うのは分かります。でも和也は、私がまたパニックを起こすのを怖がっているだけなんです」
「また?」
琴音は照れたように笑った。
「学生の頃、私ずっといじめられていて……それで、よくないこともしてしまって。その時、和也が矢面に立って助けてくれたんです」
そう言いながら、甘えるように付け加える。
「今になっても和也、その癖が抜けなくて。だから今夜の和也の行動も、雪見さん、どうか気にしないでくださいね」
詩音は無表情のまま、その場に立って聞いていた。
この一晩で、ただでさえ冷え切っていた心はガラスの破片のように粉々に砕け散り、痛みすら麻痺している。
琴音がいったいどれほどの自信を持っていれば、妻である自分の目の前で、和也との親密さをこれほど狂ったように見せつけられるのか、見当もつかなかった。
気にしないでくれ?
琴音はいったい、どの立場でそんな口を利いているのか。
吐き気がする。
思わず指を擦り合わせ、今すぐその頬を張り飛ばしてやりたい衝動に駆られた。
「話は終わった?」
詩音は尋ねた。
「え?」
「終わったなら、賠償の話をしましょう」
詩音はスマホを取り出し、淡々と計算を始める。
「広報部全体の残業代。会社の株価下落による損失。それに、根回しのために使った莫大な費用……」
最後に、詩音は弾き出した数字を琴音の目の前に突きつけた。
「どういう形で払う?」
琴音の顔に浮かんでいた甘えたような笑みが、瞬時に石のように固まった。
しばらくして、彼女は引き攣った笑みを浮かべる。
「和也が自分から助けてくれたのに、それも私のせいにするんですか?」
詩音は鼻で笑った。
「なら、別の言い方でもいいわ」
琴音の反応を待たず、彼女ははっきりと告げた。
「今夜のすべての行動、それにさっき小林さんが言った言葉も含めて、私は裏切られたと感じた」
「私の夫が深夜、一人の女のために殴り合いを起こし、そのせいで企業に損害を与えた。私はあなたを愛人と定義してもいいかしら?」
嘲るような視線が琴音の顔に突き刺さる。
「おまけに、夜中にあなたたちのために走り回らされた。なら――あなたに精神的苦痛への慰謝料を請求してもいいわよね?」
琴音はよろめき、顔をさらに蒼白にさせた。
「雪見さん……そういう冗談、笑えません……」
「冗談が嫌なら、どうして自分からすり寄ってくるの」
詩音は呆れたように目を細め、冷笑した。
「事態はもう解決したんだから、小林さんは帰って休むべきね」
