第6章
詩音はその場に立ち尽くし、黒い車が走り去るのを見送った。
踵の靴擦れが鋭く痛み、詩音は思わず顔をしかめる。
足を少し動かし、振り返って足元を見た。
車のヘッドライトの明かりを頼りに、足を後ろへ持ち上げる。
ハイヒールに擦れた踵は赤く腫れ、血が滲んでいた。
「奥さま」
声に顔を上げると、運転手が車の傍らに立ってこちらを見ていた。
「次は、どちらへ……」
詩音は視線を戻し、ティッシュを小さく折り畳んで靴の踵に押し込んだ。
「病院へ」
車に乗り込むと、詩音は後部座席の背もたれに深く沈み込み、全身の力を抜いた。
馴染み深い疲労感がどっと押し寄せ、静かに目を閉じる。
心の奥底に押し殺していた感情が次々と逆流し、脆くなった神経を容赦なく蝕んでいく。
長く息を吐き、再びスマホの画面を開いた。
幸い、広報部の火消しは迅速だった。意図的に熱量を下げたこともあり、これ以上騒ぎが大きくなることはないだろう。
病院に着き、乱れた髪を軽く払い、襟元を整えてから病室へ向かう。
ドアノブに手をかけたその瞬間――扉の隙間から、聞き慣れた声が漏れ聞こえた。
「家に着いたか?」
続いて、甘ったるく、どこか委屈そうな女の声。
『着いた……和也、今日あなたがいてくれなかったら、私、どうしていいか分からなかった』
詩音の動きが凍りつく。その声は間違いなく、つい先ほど自分が見送った琴音のものだった。
自分が事後処理に奔走している間に、和也は琴音の安否確認をしているというのか。
自分が琴音に危害を加えると、どれほど警戒しているのだろう。
詩音はゆっくりと手を下ろし、無言のまま病室の前に立ち尽くした。
扉の小さな窓から、中の様子を覗き込む。
ベッドの上の男は顔を陰らせ、目を伏せていた。
その瞳の奥にどんな感情が渦巻いているのか、ここからでは読み取れない。
電話の向こうの女はまだ続けている。
『和也……あなたの心には、まだ私がいるよね』
和也の声は低く、必死に感情を抑え込んでいるようだった。
「琴音、今はそういう話をしている場合じゃない。俺も今は、そんな余裕がないんだ」
電話の向こうで、琴音は聞こえないふりをして勝手に続ける。
『でも、子どもにはママが必要よ。和也にも、琴音が必要でしょう?』
「琴音……」
和也はスマホを握り締め、目を閉じ――ついに折れた。
眉間の皺がほどけ、声が少しずつ優しくなる。
「もう少しだけ待ってくれ。いいな?」
「君のために……」
詩音はどれほどその場に立っていたのか、分からなかった。
午前五時の病院は、不気味なほど静まり返っている。
薄暗い照明が彼女を照らし、孤独な影が床に長く伸びて、ひどく惨めに見えた。
無言で中の会話を聞いているうちに、頬が冷たくなっていくのを感じる。
ふと指先が触れると、そこは涙で濡れていた。
瞬きをして、ベッドで女を宥めるように話す男を見つめる。記憶の中の夫とは、どうしても結びつかない。
この五年間、仕事以外で和也がこんなふうに話すことは滅多になかった。
ましてや、誰かを甘やかすように宥めるなど。
だが今、琴音に対して、彼はプライドを捨ててまで機嫌を取ろうとしている。
琴音が彼の中でどれほどの重みを持っているか、痛いほどよく分かった。
今この瞬間、詩音は現実を直視せざるを得なかった。離婚は、一刻も早く進めなければならない。
胸を押さえる。喉に綿が詰まったみたいに息苦しい。
詩音は強く目を閉じ、瞬時に感情を整えると、扉を押し開けた。
その瞬間、和也がちょうどスマホを置いたところだった。
視線が絡み合う。彼の表情に、ほんの一瞬だけ狼狽が走るのが見えた。
だがそれも束の間、和也はすぐにいつもの平然とした落ち着きを取り戻した。
「どうして来た」
詩音は数歩近づき、淡々と答える。
「先生から、目が覚めたって聞いたから。様子を見にね」
「事後処理は終わったのか?」
視線を落とすと、男が堪えるように拳を握っているのに気づいた。明らかに、まだ先ほどの感情から抜け出せていない。
こちらに話しかけてくるのは、ただ注意を逸らすためだ。
終わったかどうかなど、彼はとっくに知っているはずなのに。
詩音はただ心が冷えていくのを感じながら、適当に返す。
「大体は片付いたわ」
そして、何気ないふりをして尋ねた。
「さっき、誰と電話してたの?」
和也は一瞬固まり、短く説明する。
「秘書だ」
嘘だ。
詩音は暴く気もなかった。
病室に戻って和也に会いに来た本当の目的は、こんな無意味な追及をすることではない。
悠那もそろそろ動き出す頃だろう。
先に裏切ったのは彼だ。ならば、こちらが容赦しなくても文句は言えまい。これまで会社にもたらした莫大な利益――きっちり清算してもらう。
詩音は目を伏せ、長い睫毛で一瞬だけ瞳に走った冷酷な光を隠した。
彼女は頷き、ベッドサイドのリンゴとナイフを手に取って腰を下ろした。指の腹を刃先に当て、ゆっくりと皮を剥きながら提案する。
「しばらくの間、私が会社の業務を代わるわ。あなたはここで、ゆっくり傷を治して」
和也は眉を寄せ、考える間もなく即答した。
「駄目だ」
あまりにも拒絶が早すぎたことに気づいたのか、和也は邪推されるのを恐れて付け加えた。
「普段から投資部の仕事だけでも手一杯だろう。これ以上、君が無理をする必要はない」
「前に話した通りだ。君は名家の奥さまとして、のんびりしていればいい」
詩音は微笑みながら、切ったリンゴを和也の口元へ差し出した。
「今は怪我してるんだから、会社に行くのは控えて。ちょうどいい長期休暇だと思って、しっかり休んで」
実は、ここへ来る途中で兄の秘書から電話を受けていた。
秘書の話によれば、株式を取得するには和也本人の署名による同意を得るか、他の株主から買い取るしか方法がないという。
会社設立当初、彼女は株式を受け取らなかった。
今になって手に入れようとすれば、和也の目を盗んで株主から買い集めるしかない。
だからこそ、会社に戻る必要があった。
和也は少し躊躇ってから言った。
「それでは、君が疲れすぎないか?」
詩音は笑みを浮かべる。
「この何年も、ずっとそうやってきたじゃない?」
和也は言葉を失った。これまでも詩音が様々な煩雑な業務を処理してきたことを思い出し、珍しく気まずそうにする。
彼は誤魔化すように軽く咳払いし、頷いた。
「……分かった。それならしばらく、君に任せるよ」
目的を果たし、詩音は明るく笑った。
この期間を利用してすべてを片付け、彼ら“家族三人”のためにさっさと場所を空けてやる。
リンゴを切る力は次第に強くなっていったが、顔を上げたとき、その表情は温和そのものだった。
良き妻としての立場を、最後まで貫き通すために。
そして、和也に見透かされないために。
詩音はスマホを手に取り、時間を確認する。
「そろそろ会社に戻るわ。広報部も、まだ動いているはずだから」
