第7章

和也は頷いた。

「ああ、しばらく君には苦労をかけるな」

詩音がオフィスへ向かうと、すでに広報部長が待ち構えていた。

彼女の姿を認めるなり、タブレットを手に駆け寄ってくる。

「雪見部長、ようやく……! 今、各メディアが藤原社長の暴力沙汰に食いついていて、いくら金を積んでも記事を下げません」

「さらにネットで『うちの黒い噂を掘る』って煽って、泥を塗る動きも出ています!」

詩音はそのまま椅子に腰を下ろし、タブレットの画面を一瞥した。

「工作アカウントは入れたの?」

「入れました!」広報部長は頭を掻きむしり、焦燥を露わにする。「でも効きません! 完全に世論を統制されています」

詩音は眉をひそめ、手慣れた手つきでパスワードを打ち込んでPCを立ち上げた。裏のシステムを開くと、自社の株価が緑の矢印で一直線に落ちていた。

このペースなら、そう遠くないうちに提携先は逃げてしまう!

背後で例の投資家が糸を引いているに違いない!

こめかみを揉み、目の前の数字をぼんやりと見つめていたが、すぐに意識を切り替えた。

「エデンへ人を出して。事件発生の前後一時間の監視カメラ映像を取ってきて」

詩音は広報部長へ視線を向ける。

「世論をずらして、責任転嫁する。できる?」

「できます!」

「行って」詩音は軽く手を振った。

彼が部屋を出ていくと、詩音はオフィスチェアに深く背中を預けた。

広報部長から渡された『黒い噂を掘る』という件の資料に目を通すうち、妙な既視感に襲われる。

動画の投稿者の声は加工されており、誰のものか特定できない。

別のアカウントで投稿者のページへ飛び、適当な動画を一つ開く。数秒聞いたところで、詩音は弾かれたように背筋を伸ばし、シークバーを最初に戻して聞き直した。

何度聞いても、会社が巨額を投じて進めているプロジェクトの内容が、音として耳へ入ってくる。

詩音の表情が一瞬にして険しくなった。

この案件はまだ公表していない。今の漏洩は計画そのものを破壊し、多大な損失を生む!

動画の投稿日を確認すると、ここ数日のことだった。

どうやら、社内に内通者がいるらしい。

卓上の内線電話を手に取り、ボタンを押す。

「ちょっと入って」

アシスタントの葵が慌ただしく駆け込んできた。

「雪見部長、お呼びでしょうか」

「この暴露系アカウントに連絡して。重金を提示して、情報源が誰なのか聞き出して」詩音は動画を示して指示を出した。

葵は首を傾げて画面を覗き込み、不安げに口にする。

「でも広報部長が、いくらお金を積んでも記事を下げないって……。それなら、この動画の情報源についても、きっと相手は口を割らないんじゃ」

詩音は指先で一定のリズムを刻みながら机を叩き、淡々と言った。

「お金が足りないから、同意しないのよ」

顔を上げ、冷ややかに告げる。

「予算は気にしない。口を割らせるまで」

「了解です!」

葵はすぐさま行動に移した。

ほどなくして、詩音のPCに葵から録音データが送られてきた。

『情報源を教えてくれたら、交渉したお金は一円も欠かさず振り込むわ』

『もちろん。あの二本の暴露動画を渡したのは、そっちの会社のマーケティング責任者だよ。名前も教えた。早く金を頼む』

『振込先は』

録音はそこで終わっていた。予想通り、刺さるところに札束を置けば、人間は喋るものだ。

詩音にも、そのマーケティング主管には見覚えがあった。

ずる賢く、手癖の悪いタイプ。

この件で、もう生かしておけない。

詩音は録音データを保存し、病院へと向かった。

病室に入るなり告げる。

「このマーケティング主管、解雇するわ」

そう言いながら、詩音は録音を聞かせ、ネット上で暴露系アカウントが投稿した例の動画を二本、和也に見せた。

一音ごとに、和也の顔色が悪くなる。

詩音は彼の表情を観察しながら探りを入れた。

「同意する?」

和也はすぐに感情を抑え込み、スマホを詩音に返すと、軽く手を振って淡々と言った。

「君の判断でいい」

「任せる。君なら安心だ」

その言葉が欲しかった。

和也が見ていない角度で、詩音の唇がほんの少し上がる。会社へ戻るや否や、彼女は即座に社内通達を出した。

続けて、営業機密漏洩を理由に本人を直接解雇する。

相手の憎悪に満ちた視線にも動じず、淡々と告げる。

「後ほど弁護士から通知させます。今回の漏洩でグループが被った損害、きっちり請求させてもらうから」

マーケティング主管だけではない。この件に関わった人間は誰も逃がさない。

処理を終える頃、和也が退院して復帰するという連絡が入った。

詩音はスマホのリストを見て、残念そうに小さく息をつく。

時間が足りない。

和也があと数日遅ければ、和也側の人間をもっと排除できたのに。

それでも、この結果なら悪くない。

大方が片付いたなら、明日は離婚の手続きに入れる。

翌日。

詩音が出社すると、和也はすでに社長室にいた。

扉を開けると、和也の額のガーゼはまだ外れていない。

詩音は目を細める。

復帰が早すぎる。ここ数日の自分の動きが目立ったのだろうか?

思考が終わる前に、和也が顔を上げた。

詩音は即座に表情を整え、笑って歩み寄る。

「まだ傷も治りきってないのに、どうしてもう来たの?」

和也は万年筆を握る手を止め、平静を装って答えた。

「やはり、君にばかり背負わせすぎたくない」

「人を何人か整理したそうだな」和也は書類から目を離さずに言った。

詩音は彼の焦りを理解しつつ、薄く笑って説明する。

「あなたに確認したはずよ」

「会社の利益を損なう人間は、当然切るべきでしょう」

詩音は机の前に立ち、卓上の書類を整理しながら、小首を傾げて和也を観察する。

そしてバッグから二通の書類を取り出し、書類の山へさりげなく滑り込ませた。

和也が視界の端でその動きに気づき、訝しげに顔を上げる。

「何だそれ」

「契約書よ」

詩音は笑ってその書類の山を和也の手元へ寄せ、一番上の一冊を手に取って軽く振ってみせた。

「私が事務を回してはいるけど、どうしてもあなたの署名が必要なところもあるから」

「前に聞いた時、持ってくるの忘れて。急ぎじゃなかったから、いっそまとめてサインしてもらおうと思って」

資金調達や投資案件を見極める目に関して、和也は詩音を信頼している。

彼は深く考えず、いつものように書類を受け取ると、軽く目を通しただけで最後のページに自分の名前を署名していった。

詩音は傍らに立ち、指を握り締めながら彼が署名する動きを見つめている。

次の瞬間、彼の手がぴたりと止まった。

詩音の体が、無意識のうちに前へのめり出す。彼女がこっそり仕込んだあの書類だ!

和也は眉をひそめ、違和感を覚えたように呟く。

「……これ、何だ?」

彼はその書類を持ち上げ、詩音の目の前で二度ほど揺らした。

「離婚協議書?」

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