第5章 どう選ぶか

シェリーはうとうと眠りかけたまま、眉間に小さな結び目を作った。

夢の中には、またあの鐘楼。

『お姉ちゃん、跳びなよ。跳べば、楽になれるよ』

背後には、ライアン家の連中――冷たさを通り越して、ほとんど嫌悪みたいな顔が並ぶ。

父も母も、兄も。誰ひとり、手を伸ばさない。

つま先が、少しずつ、鐘楼の縁へ寄っていく。

「……っ!」

シェリーはばっと目を開け、勢いよく上体を起こした。毛布が膝までずり落ちる。背中に浮いた薄い汗がエアコンの風に撫でられて、一瞬でぞくりと冷えた。

反射的に自分の首に触れる。――ちゃんと、つながっている。

隣のリクライニングチェアが、かさ、と鳴った。

シェーンの手の中の『有機合成化学・応用編』が、ぱたんと閉じられる。

首だけをこちらへ向けたシェーンの蒼い瞳は、暖色の灯りの下でも冷えたガラスみたいに光っていた。眉間の皺は、蝿でも挟んで殺せそうなほど深い。

「……」

口を開きかけて、また閉じる。

こういうとき、父なら何と言う?

母なら何と言う?

六年分の『正常な人類の反応データベース』を脳内で引っ繰り返した結果――該当ゼロ。

シェーンはぎこちなく手を伸ばした。宙で三秒ほど迷ったあと、最後はシェリーの頭頂にぺし、と掌を落とす。

強すぎず、弱すぎず。

「……夢ってのは、レム睡眠中の大脳皮質が二次処理しただけで、予言でも何でもない」

真面目腐った声で続ける。

「五歳児が週に数回悪夢を見るのは、神経発達として正常な範囲だ」

シェリーはぽかんと彼を見上げた。

シェーンの手はまだ頭の上に置かれたまま、固まっている。

少し間を置いて、今度は極端に不器用な手つきで、くしゃ、と二度ほど撫でた。扱い方の分からない小動物を、とりあえず揉んでみているみたいに。

シェリーの鼻の奥がつんとした。ぐっと吸い込み、彼の掌に頭をすり寄せる。

「うん。わかった、兄ちゃん」

シェーンは弾かれたみたいに手を引っ込め、拳を作ってトレンチのポケットに突っ込んだ。耳の先が、目に見えて赤い。分厚い本を持ち上げて顔の前に立てると、ページの向こうからくぐもった声がした。

「……次、悪夢見たら、呼べ」

「呼んで、どうするの?」

「……怖くなくなるまで、付き合う」

シェリーはぷっと吹き出した。胸の奥にへばりついていた粘つく何かが、その一言でぷつんと割れる。

午後三時半。塗装の剥げたシボレーが時間ぴったりに鍛鉄の門の前へ止まり、ロールスロイスやマイバッハの列の中で――白鳥の群れに迷い込んだ雀みたいに浮いていた。

サイラスは今日は、さらに古びたチェックのシャツ。袖口には、機械油か何かの汚れがちょんと付いている。郊外の牧場主が街へ子どもを迎えに来た、という設定に完璧に沿った身なりだった。

シェリーは乗り込むなり、ヴェラの胸に飛び込んだ。

今日はヴェラは地下室で仕事をせず、わざわざ家でケーキを焼いていたらしい。身体から、ほのかな生クリームの匂いがする。

「今日どうだった、ハニー。いじめられたりしてない?」

マフラーを解きながら、ヴェラはにこにこと尋ねる。碧い瞳は三日月みたいに細い。――けれどシェリーは知っている。ここで「いた」とでも言おうものなら、今夜、誰かが自宅のベッドで不慮の中毒死を遂げる。

「ううん」シェリーは素直に首を振った。

「エミリがシュークリーム分けてくれて、後ろの男の子が『うちの子馬見に来ない?』って言ってくれて、赤毛のお姉ちゃんが『お団子かわいい、友だちになろ』って」

ヴェラは娘をいっそう強く抱き締める。

「シェリーってば、愛される才能あるわね。ママに似たのよ。ママも昔、パリの学校に入った初日からクラスの子たちに囲まれたんだから」

前の席で、サイラスがこほんと咳をした。

その話なら、サイラスは鮮明に覚えている。ヴェラが入学して三日目に、校長室が半分吹き飛んだ。

シェリーは裏の意味など気づかず、褒められたのが嬉しくて、足先でシートをとんとんと叩く。

「ママ」

見上げて言った。

「お兄ちゃんたちも、みんなこんなにすごいの?」

ヴェラの目がぱっと輝く。

「当然よ! 長男なんてね、十六歳でホプキンス大学の医療資格を取ったの。P国でいちばん若い免許持ちの外科医。いまは私立貴族病院で執刀してるわ」

シェリーの手元から、ケーキの欠片がぽろりと落ちた。

十六歳。

ホプキンス大学。

最年少の免許持ち外科医。

ライアン家の屋敷に八年いた彼女には、その重さが分かる。

大きな目をぱちぱちさせ、いかにも無邪気に言った。

「わあ、すごいね。じゃあお兄ちゃん、小さい頃から小屋に閉じ込められて解剖の本だけ読まされて、大きくなってやっと出してもらったの?」

助手席のサイラスがハンドルをがくんと切り、危うく道端の消火栓に寄りかけた。

「げほっ!」

バックミラー越しに睨みつける。

「小屋って何だ小屋って。あいつは才能があるんだよ、才能! 分かるか、才能ってのは!」

シェリーは真顔で返す。

「パパは、新しい脳みそが必要そうだね」

「……」

横でシェーンが、鼻で短く笑った。

サイラスは顔を引きつらせ、手を伸ばしてシェリーのお団子をつまもうとする。

「このガキ、来て二日で親をネタにする気か?」

「きゃははっ」

シェリーはヴェラの胸に潜り込んで、短い足をばたばたさせた。

「ママ助けて!」

「サイラス」

ヴェラがゆったりと口を開く。指先がドアハンドルをすうっと撫でた。

「私の前で、私の娘に手を出すつもり?」

サイラスの手は、目に見える速度で引っ込んだ。乾いた笑い。

「冗談だよ、ハニー。シェリーが賢いのは君に似たんだ」

シェーンは窓の外を眺めたまま、顔をハイネックの中に埋め、無言で白目をひっくり返した。

家に帰ると、ヴェラが最初にしたのはコートを脱ぐことではなく、シェリーの手を引いて二階のウォークインクローゼットへ直行することだった。

元は客室だった部屋が、この二日でヴェラの指揮のもと壁を抜かれ、ミルクベージュの羊毛カーペットが敷かれ、壁一面にオーク材の収納が取り付けられている。

扉を開けたシェリーは、入口で固まった。

三列のハンガーラック。びっしり。

「ママ……」シェリーの喉が少し乾く。「これ……」

「気に入った?」

ヴェラは目をきらきらさせ、もう我慢できないとばかりにシェリーに当てていく。

「ママ、昨夜寝ないで選んだの。来週のパリの春夏キッズの予約も入れたから、季節が変わったら総入れ替えね」

「うん。好き」

シェリーは甘い声で言った。

「ママのセンスがいちばん」

ヴェラはシェリーを抱き上げ、くるくる二回転させた。

——

夕食前、サイラスはシェリーを自室の書斎へ呼び入れた。

「来い、シェリー。パパの手伝いだ」

シェリーは背伸びしながら向かいのハイスツールに登る。

「なあに?」

「パパな、最近、新しい取引先を何人か選ばないといけない。牧場の……仕事のな」

サイラスは真顔ででたらめを並べる。

「リストが長いから、お前が一人選べ」

シェリーは机の上の分厚い資料の束に目を落とした。

いつの間にかシェーンが書斎のドア枠にもたれ、両手をポケットに突っ込んだまま冷ややかにその束を見ている。

一番上の一枚に目を走らせた瞬間、視線がわずかに尖った。

紙の縁には特殊加工。湿気で色が変わる。

サイラスが『優先度の高い標的』に付ける、昔からの癖。取引先リストどころか、これは厳選された「始末候補」だ。

シェーンが口を開きかけた、その前に。

シェリーの小さな指が、束の上をすうっと滑り、何の前触れもなく中段より少し下の一枚で止まった。

「これ」

サイラスのペン回しが止まる。

「……これ?」

声が、やけに静かになる。

「本当に、それでいいのか?」

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